2022
05.05

埼玉県に突き出た手?人口集中地区の縁辺に位置する緑多い街、東京都清瀬市を特集(その1)

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東京都の形を知っていますか。

東京都のうち、本州に位置する東京都区部および多摩地区の形状をじっとみていると、西側が頭、東側が足で北に向かって進んでいる人のような”何か”に見えてきませんか。

そして、東西のほぼ中央部、南北に広げた手の北側に相当する部分を占める自治体が清瀬市です。

関東地方の人口集中地区と清瀬市の位置(地図で見る統計(統計GIS,政府統計の総合窓口)の地図を加工、ベースの地図は国土地理院ウェブサイト)

清瀬市は、南西側を東京都東村山市、南側を東久留米市に接し、東側を埼玉県新座市、北側を埼玉県所沢市と接しています。

所沢市との境には、同市の狭山湖(さやまこ、正式名称は山口貯水池)に発する荒川の支流の柳瀬川(やなせがわ)が北東方向に向かって流れています。

また、武蔵村山市から流れてくる空堀川(からぼりがわ)が市域の西側を北東流し、柳瀬川に合流しています。

埼玉県側に飛び出しているため、東京都の他の自治体との境界よりも埼玉県と接する境界の方が延長距離が長くなっています。

2020年10月1日の国勢調査における人口は7万6208人、面積は10.23km2、人口密度は7449.5人/km2であり、2015年10月1日実施の前回の国勢調査と比較すると1344人増加しました。

清瀬市の人口集中地区

清瀬市は東京都特別区部から続く人口集中地区の縁辺に位置しています。

清瀬市の人口集中地区の人口は7万3564人、面積は8.62km2、人口密度は8534.1人/km2です。

総人口の96.5%が総面積の84.3%の人口集中地区に住んでいます。

清瀬市の人口集中地区の広がりをみていきましょう。

東京都側の東村山市および東久留米市との境界はすべて人口集中地区で接しています。

埼玉県新座市との境界は、松山(まつやま)一丁目、元町(もとまち)一丁目、上清戸(かみきよと)一丁目、および中清戸(なかきよと)一丁目、三丁目、五丁目と下清戸(しもきよと)一丁目の一部で新座市人口集中地区Ⅱと接しています。

また、埼玉県所沢市との境界は野塩(のしお)五丁目、一丁目、野塩団地の位置する野塩二丁目、中里(なかざと)二丁目、および中里四丁目の一部で所沢市人口集中地区Ⅰと接しています。

一方、人口集中地区以外の地域は農村地域(rulal area)とも呼ばれますが、下宿(したじゅく)三丁目と旭が丘(あさひがおか)四丁目のすべて、旭が丘六丁目、下清戸三丁目および四丁目の大部分、下清戸二丁目、下清戸五丁目、中清戸四丁目は半分程度、下清戸一丁目、中里四丁目および六丁目は一部がそれぞれ農村地域となっています。

つまり、清瀬市の人口集中地区は、中里五丁目の市役所付近から柳瀬川に沿って関越自動車道付近まで、および中清戸五丁目から埼玉県との東の境界である下清戸五丁目まで北東方向に伸びるウサギの耳のような形状をしているのです。

清瀬市と人口集中地区(地図で見る統計(統計GIS,政府統計の総合窓口)の地図を加工、ベースの地図は国土地理院ウェブサイト)

なお、清瀬市の農村地域人口は2644人、面積1.61km2、人口密度は1642.2人/km2と算出されます。農村地域としては、その人口密度は高めとなっています。

志木街道を歩く

市の中央部を南西方向から北東方向へ伸びる志木街道は、江戸中期には整備されていたようですが、志木という地名が明治7年引又(ひきまた)宿と舘(たて)村の合併によって初めて成立した地名であることを考えると、別の名称があったのかもしれません。

明治時代前半には上清戸、中清戸、下清戸のあたりには、いわば路村が形成されており、明治初期の地図にもその地名を確認することが出来ます。注1

清瀬市の前身、清瀬村が誕生したのは明治26年4月1日、中清戸村、上清戸村、下清戸村、清戸下宿(きよとしたしゅく)、中里村、野塩村、および下里(しもさと)村飛地の合併注2によってでした。

明治31年12月31日現在の人口静態表注3によると、清瀬村の現住人口は2975人でした。

ちなみに、路村とは道路に沿って伸びた集落をいい、江戸時代には新田開発に伴い武蔵野台地上にのびる街道沿いに数多く形成されていきました。

明治中期の地図でも志木街道沿いに市街地が形成されていることがわかります。

今昔マップで見る明治後期(左)と現在(右)の清瀬市

今でも、立ち並ぶケヤキの並木の内側に木々の中に佇む日枝神社水天宮などの古い神社、道路沿いに建てられた蔵など、歴史を彷彿とさせる建造物を見ることが出来ます。

日枝神社水天宮

志木街道沿いに建ち並ぶ蔵

また、志木街道沿いの市街地よりちょっと北側に足を踏み入れると、東京一の出荷量を誇ると言われる人参でしょうか、一面に広がる農地を見ることが出来ます。

明治期には志木街道沿い、現在の中清戸五丁目付近に村役場があったようですが、昭和初期には現在の中里五丁目に移設されました。

志木街道から市役所に向かう市役所通りは、ちょうど人口集中地区と農村地域の境界部になっています。境界部といっても、通りに面した左右の地域の景観に大きな差異はなく、ともに道路沿いに広がる農地の奥に住宅地が立ち並んでいました。

市役所通りを市役所方向へ向かう、左側は人口集中地区だが農地が広がり境界は明瞭ではない

地図上でもわかるように、人口集中地区にも畑は入り込んでいて、一目見てその境目は明瞭とは言えません。

このように清瀬市の人口集中地区の農村地域との境界付近は、互いに市街地、住宅地と農地の入り組んだ混然とした、こころ安らぐ空間でした。

さて、清瀬市の第2回目ですが、夏頃、ひまわりの咲く時期に予定しています。

人口集中地区の変遷や西武池袋線以南の地域に集中する医療関連機関についてなど、まだまだお届けできなかった情報をお伝えできればと思います。

注1:株式会社平凡社、株式会社平凡社地図出版編集・制作,幕末明治大地図帳輯製二十万分一図,平凡社

注2:太田孝編著・西川治監修,幕末以降市町村名変遷系統図総覧,東洋書林

注3:内閣統計局編,国勢調査以前日本人口統計集成,東洋書林

<参考>

・清瀬市,清瀬市ガイドマップ第4版,令和3年10月1日

・政府の総合統計窓口 https://www.e-stat.go.jp/

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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