2021
05.31

奥州の地にアテルイ現る!大和朝廷と蝦夷のはざまで繰り広げられた戦い、そして都人のあこがれた衣川とは!?

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3週間ぶりとなりました。

奥州市の第2回です。

奥州市の第1回目では日本最北端の古墳の角塚古墳が作られた5世紀前後について書きました。

今回は朝廷に抵抗した蝦夷の族長アテルイの登場から奥州藤原氏繁栄以前の歴史について見ていこうと思います。

奥州市の周辺は、胆沢城などの歴史的に重要な史跡が数多くあり、となりの自治体の平泉町とともに、奥州藤原氏のまさに、黄金の国ジパングのよりどころとなるきらびやかな文化が花開いた地でもあります。

奥州藤原氏は平泉を拠点としていましたが、もともとは江刺郡の豊田館から平泉に拠点を移して繁栄したのです。

豊田館跡

これがゆかりかどうかはわかりませんが、奥州市には平安時代の建物を再現したテーマパーク歴史公園江刺藤原の郷があります。

もともとは1993年のNHK大河ドラマ、炎立つ(ほむらたつ)のセットとして利用されたものなのだそうです。

テーマパーク歴史公園江刺藤原の郷

さて、いよいよ奥州市の歴史についてみていくことにしましょう。

アテルイ率いる蝦夷軍の活躍と降伏

5世紀前後、大和朝廷と蝦夷の勢力が拮抗する場所が、奥州市周辺であったことは、前回解説した通りです。

その後もしばらくの間、このような状況が続きます。

8世紀半ばごろ、朝廷はいまだ蝦夷に支配されていた本州北東部への版図拡大のため、城柵を置いて柵戸と呼ばれる移民を移住させて支配を拡充しつつありました。

蝦夷に対しては征討と撫慰(懐柔)を使い分け、いまだ服属しない蝦夷を、すでに朝廷に帰順した蝦夷を使って懐柔させることも行われました。

蝦夷の中には彼ら自身の思惑で朝廷に帰順し、朝廷の政策に協力することで、自らの地位の上昇をも目論むものもあったのです。

そして、このように朝廷に帰順した蝦夷は身分上さらに狭い意味での「蝦夷」と「俘囚(ふしゅう)」とに分けることができます。

狭い意味での「蝦夷」とは、彼ら本来の集団を保持したまま朝廷に帰順した蝦夷であり、君または公の姓(末尾に君または公のついた姓)を朝廷より与えられ、その多くは従来の居住地にとどまっていました。

一方「俘囚」とは、朝廷に帰順したもので部姓(末尾に部のついた姓)を与えられて城柵の周辺に居住したものをいいます。

西暦780年(宝亀11年)になって、蝦夷の長である伊治呰麻呂(これはるのあざまろ、伊治公呰麻呂とも)が東北地方の長官らを殺害して反乱を起こします。

西暦774年(宝亀5年)にはじまった、蝦夷と朝廷の間の三十八年戦争のただなかの出来事です。

この時も現奥州市の胆沢、江刺は蝦夷側の根拠地となっていました。

西暦789年(延暦8年)蝦夷の軍事指導者であるアテルイの率いる蝦夷軍は徹底抗戦し、巣伏(すぶし)の戦いで朝廷軍を撃退するのです。

その後、西暦802年(延暦21年)、蝦夷軍は征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏し、三十八年戦争は朝廷側の勝利で幕を閉じました。ときに桓武天皇の時代でした。

戦後、朝廷は鎮守府を多賀城から坂上田村麻呂が築いた胆沢城に移します。

胆沢城は、1083年(永保3年)の後三年の役のころまで約150年にわたって鎮守府(軍政をつかさどる役所)として機能しました。

胆沢城跡

歌枕の地、衣川と安倍氏

平安時代後期になって、奥州市南部の衣川を拠点とする豪族、安倍氏が俘囚長となり勢力を広げ、安倍頼時の代に奥六郡(現在の奥州市から盛岡市にかけての地域)を支配して強力な勢力を持つにいたります。

しかし、安倍氏は前九年の役(1051年(永承6年)~1062年(康平5年))で、出羽の俘囚長である清原氏の援軍を得た源頼義、義家親子によって滅ぼされてしまいます。

とはいえ、安倍氏の血は、安倍頼時の娘、有加一乃末陪(ありかいちのまえ)が奥州藤原氏の祖、藤原経清の妻となったことで、奥州藤原氏へと受け継がれていきます。

奥州藤原氏は、奥州市の隣町、平泉の地で京をもしのぐと呼ばれた平泉文化を花開かせるのです。

ところで、衣川は歌枕として多くの和歌に登場します。その数はおよそ70といいます。

蝦夷との境の地、戦乱の地のイメージが先行しても良いはずですが、平泉のイメージもあって、京の都人には、遠いあこがれの地だったのかもしれません。

そんな京から遠くへだたった衣川の地ですが、この地を二度も訪れ、和歌にしたためた歌人がいます。

西行です。

西行が読んだ衣川の句、一首を記して、今日のブログを締めくくりたいと思います。

十月十二日平泉にまかりつきたりけるに、ゆきふり、あらしはげしく、ことのほかにあれたりけり。いつしか衣川みまほしくてまかり向ひてみけり。河の岸につきて、衣河の城しまはしたることがらようかはりて物を見る心ちしけり。汀凍りてとりわきさえければ

とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣河見にきたる今日しも

       西行『山家集』(伊藤嘉夫 校注,朝日新聞社,1954)

「山家集 下(雑)」1218

<参照>

・衣川村「一首坂」,胆江地区の地名を考える その3,国土交通省東北地方整備局 https://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_14/vol14_1.htm

・平泉を訪れた人々(1)西行,世界の平泉へ,岩手県立図書館 https://www.library.pref.iwate.jp/ex/hiraizumi/alacarte01.html

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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