08.10
意外!遠山の金さんと日本最北端の街、稚内にどんな関係が?
関東地方は、梅雨が明けたと思ったら、暑い日が続いています。
こんな日には、猛暑日(最高気温35℃以上の日)とは縁のない日本で最北の街、稚内市の地勢や人口について、見ていきたいと思います。
ここで、猛暑日とは縁のないと書きましたが、稚内の過去の最高気温は、1938年以降で摂氏31.3度(1946年8月22日に観測)、年最高気温が30度以上となった年も84年間の観測期間を通してわずか9年です。
さて、稚内市は北方領土を除くと日本の最北端に位置しており、サハリン(樺太)南端のクリリオン岬までの距離はわずかに43kmです。
稚内市は南北に縦走する二つの丘陵地(東側は宗谷丘陵)とその中間、及び両端に発達した低地帯からなります。
宗谷丘陵は、地中の水分が凍結と融解を繰り返すことによって発達した周氷河地形を形成し、「宗谷丘陵の周氷河地形」として北海道遺産に選定されています。
また、西側の低地は、砂丘と湿地により構成され、利尻礼文サロベツ国立公園の北端部にあたり、南のサロベツ原野へと続いています。
稚内市の市街地は、宗谷海峡に突き出す二つの半島のうち、西側の稚内半島の東側根元に位置する稚内港および稚内駅を中心に広がっており、人口29,544人、面積8.42km2、人口密度3,508.8人/km2(平成27年国勢調査)の人口集中地区が形成されています。
この稚内駅は宗谷本線の出発点であり、かつ同駅前は国道40号線および国道238号線の終点ともなっています。
さて、稚内市には二つの半島がありますが、最北端とされるのは東側の宗谷半島の突端の宗谷岬です(実際は、宗谷岬沖の無人島、弁天島)。宗谷岬は、稚内駅からおよそ30km離れています。
稚内市街地から近いもう一つの岬、ノシャップ岬も有名ですが最北端ではなく、宗谷岬へはバスで50分ほどの時間をかけて移動しなければなりません。
宗谷岬に着くと、日本最北端の地のモニュメントと樺太探検で有名な間宮林蔵の像が出迎えてくれます。
遠山の金さんと稚内
ところで、稚内市は遠山の金さんでおなじみの遠山金四郎景元と関係があるって知っていますか?
実は、直接関係があるのは景元自身ではなく、景元の実父、遠山金四郎景晋(とおやまきんしろうかげくに)でした。
景元は北町奉行(のちに南町奉行)として有名ですが、その父、景晋はそれまで幕府主要ポストとは無縁であった遠山家へ養子として迎えられ、学問吟味と呼ばれる試験により甲科(最も難しい科)筆頭という優秀な成績を収めたのち、幕府で異例の昇進を重ね長崎奉行、作事奉行、勘定奉行といった要職を歴任した人物です。
景国は、江戸幕府の対外政策の第一線を担って東奔西走した人物ですが、1806年(文化3年)(当時の職は目付)に、勘定吟味役の村垣佐太夫とともに樺太を巡視し、宗谷に滞在していたのです。
この地に宗谷場所が開設されたのは1685年(貞享2年)、松前藩の交易所としてにぎわい、江戸後期に樺太探検が頻繁になると、宗谷の地はその起点となりました。1888年までは北海道北部の行政中心地でもあったのです。
稚内市の人口
稚内市の人口を下表にまとめました。
明治31年については、現在は稚内市となっている当時の村の人口を個別に表記しています。
明治初期、稚内村は宗谷村の一部にすぎませんでしたが、明治31年にはすでに人口6,335人の村になっています。
その後も人口は増加を続けますが、昭和50年(1975年)の人口55,464人のピークにを境に減少に転じ、40年後の平成27年(2015年)にはピーク時からおよそ2万人減の36,380人まで減少しています。
稚内市の人口
年 | 市町村 | 総人口 | 男性 | 女性 | 備考 |
明治11年 | 宗谷村 | 92人 | 55人 | 37人 |
本籍人口による 共武政表 人口100人以上 |
明治31年 | 稚内村 | 6,335人 | 3,454人 | 2,881人 |
現住人口 人口静態表,明治三十一年日本帝国人口統計
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宗谷村 | 637人 | 339人 | 298人 | ||
声問村 | 381人 | 220人 | 161人 | ||
抜海村 | 206人 | 120人 | 86人 | ||
泊内村 | 19人 | 11人 | 8人 | ||
大正9年(1920年) | 稚内町 | 13,082人 | 7,228人 | 5,854人 | |
宗谷村 |
9,936人 (3,129人) |
5,965人 | 3,971人 |
現在の猿払村の全区域を含む 括弧内は稚内市該当区域のみの人口 |
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大正14年(1925年) |
稚内町 | 17,725人 | 9,245人 | 8,480人 | |
宗谷村 | 2,903人 | 1,576人 | 1,327人 | ||
昭和5年(1930年) | 稚内町 | 19,359人 | 10,251人 | 9,108人 | |
宗谷村 | 2,933人 | 1,661人 | 1,272人 | ||
昭和22年(1947年) | 稚内町 | 29,275人 | 15,032人 | 14,243人 | |
宗谷村 | 3,403人 | 1,731人 | 1,672人 | ||
昭和50年(1975年) | 稚内市 | 55,464人 | |||
平成27年(2015年) | 稚内市 | 36,380人 |
<参考>
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・コトバンク:https://kotobank.jp/
・気象庁 過去の気象データ検索:https://www.jma.go.jp/
・共武政表,明治十一年,国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/
・政府の総合統計窓口 https://www.e-stat.go.jp/
・共武政表,明治十三年,国立国会図書館デジタルコレクション
・内閣統計局編,国勢調査以前日本人口統計集成5,明治31年(1898年),原書房