03.28
「風の谷」がこの国のどこかに!?民族と文化の交差点、カザフスタンのイスラム化以降
前回のブログから引き続いて、カザフスタンの話題です。
カザフスタンは1991年にソビエトから独立しました。
そのときに制定されたのが青地に金色の模様が入った国旗です。
カザフスタンの国旗(ウィキペディア、カザフスタンの国旗より)
国旗の青地は、空とされていますが、もともとは伝統的に中央アジア系遊牧民の好む色であり、カザフスタンのテュルク系民族を示すとともに、神の存在を象徴するものでもあります。
そして中央のモチーフには、太陽とその下に翼を広げて飛ぶ鷲(ステップ・イーグル(ソウゲンワシ))が示されています。
鷲は、青地に鷲の旗のもとにこの地を支配したチンギス・ハーンの帝国を示すものであり、カザフスタンの人々の誇りを表しています。
また、左端の文様はカザフ人の伝統的なもので、鷲の翼と雄羊をモチーフにしたものです。
さて、突然ですが金色と青で思い出すアニメ映画があります。
そう、「風の谷のナウシカ」です。
風の谷のナウシカは、1985年に公開された映画で、劇中に「その者青き衣(ころも)をまといて金色(こんじき)の野に降りたつべし」という伝承が語られました。
この国旗が定められるまで、「風の谷のナウシカ」の公開から6年を経ることになりますが、何か関係がありそうだとは思いませんか。
アニメ公開の1985年当時、カザフスタンはソビエト連邦の構成国であり、カザフ・ソビエト社会主義共和国とよばれていました。
もちろん国旗も現在のものとは異なります。
カザフ・ソビエト社会主義共和国の国旗(ウィキペディア、カザフ・ソビエト社会主義共和国より)
しかし、この国旗にもやはり、青色の帯があります。
ソビエトの中にあっても、青色はカザフスタンの人々にとって大切な色だったのです。
実際に、宮崎駿は風の谷のイメージを「中央アジアの乾燥地帯なんです」と発言し注ていますが、もしかしたら劇中伝承に語られる青色のイメージは、遊牧民のいわゆる「神の存在」のイメージだったのかもしれませんね。
それでは、前回から引き続いて、イスラム化以降のカザフスタンの歴史を見ていきましょう。
カザフスタンの歴史(イスラム化以降)
カザフスタンのイスラム化は8世紀にはじまります。
イスラム世界と近い地勢上の特徴から、やはり早い時期からその影響は浸透していきます。
まず、カザフスタン南部の地域が8~9世紀にかけてアラブ人によって征服され、イスラム教が伝えられました。
この地は、マー・ワラー・アンナフル(現在の西トルキスタン)と呼ばれるオアシス地域で、9世紀にはイラン人系イスラム政権サーマーン朝が建国されます。
マー・ワラー・アンナフル(ウィキペディア、マーワラー・アンナフルより)
一方、中央アジアに840年、テュルク系のカラハン朝が成立します。この王朝の起源には様々な説があり、明らかになっていませんが、テュルク系のカルルク人の部族連合により成立されたともいわれています。
カラハン朝の1000年頃の版図(ウィキペディア、カラハン朝より)
カラハン朝は、西隣のサーマーン朝の影響を受け、10世紀中ごろにはイスラム教を受容します。
999年にはサーマーン朝を滅ぼし、その後西トルキスタンのテュルク化が進むとともに、テュルク人のイスラム化も進むことになります。
11世紀になると、カラハン朝は東西に分れ徐々に衰退し、12世紀中ごろにはカラキタイに併合されました。
カラキタイは中国では西遼(せいりょう)と呼ばれた国です。
12世紀末の中央アジア(ウィキペディア、西遼より)
西遼を建国した耶律大石(ヤリュート・タイシ)は、内モンゴル(現在の中国の内モンゴル自治区)を中心に中国の北辺を支配した征服王朝の皇帝の一族です。
遼の首都である燕京を金・宋軍に攻撃される中、1125年に燕京を脱出、西進して中央アジアに入り、カラハン朝を併合してカラキタイを建国しました。
カラキタイは、1141年にはセルジューク朝を破り、西トルキスタンの主要な交易都市を支配します。
つまり、西トルキスタンに漢文化の影響を受けた国(カラキタイ)が存在したのです。
1200年頃の西遼(カラキタイ)の版図(ウィキペディア、西遼より)
13世紀に入って、カラキタイは西トルキスタンに勃興したテュルク系のイスラム教国ホラズム=シャー国に敗れ、さらにチンギス=ハンから逃げてきたナイマン部のクチュルクによって、1211年に王位を簒奪され、1218年には滅亡することになります。
その後、この地を支配したモンゴル帝国はカラキタイから中国風の統治制度を取り入れたと言われています。
なお、カラキタイの王族は仏教徒で、遼の文化の伝統を重んじていました。とはいえ、中央アジアのイスラム化したテュルク人の文化にはほとんど影響しませんでした。
カザフ草原の西の大部分は、テュルク系のキプチャクの領土でしたが、1236年にはバトゥ率いるモンゴル征西軍によって征服され、中央ユーラシアの遊牧騎馬民族はすべてモンゴル帝国の支配下にはいることになりました。
1242年、チンギス・ハンの長男ジョチの次男であるバトゥは、ヴォルガ川下流のサライに都をおき、カザフ草原を中心とする自立政権ジョチ・ウルスを築きます。一般にはキプチャク・ハン国として知られる国です。
なお、キプチャクとはテュルク系の民族名で、モンゴル人がそれに同化したために、キプチャク・ハン国と俗称で呼ばれています。
1300年ごろのジョチ・ウルス(ウィキペディア、ジョチ・ウルスより)
キプチャク・ハン国は領域内のテュルク系民族が次々と自立したため、1502年に滅亡します。
その一方で15世紀の末、ジョチ・ウルスの東部のカザフ草原において、ウズベク・ハン国が建国されます。
そして遊牧集団カザフが、このウズベク・ハン国より分離し、ウズベク・ハン国を逆に吸収し、カザフ・ハン国が建国されます。
カザフ・ハン国は16世紀初めころ隆盛となり、対外戦争を行って周辺諸国におそれられました。
18世紀になると、カザフ・ハン国は政治的な統制を失い、東部の大ジュズ、中部の中ジュズ、西部の小ジュズの3つの部族連合体に分かれてしまいます。
分裂間もない18世紀初頭、遊牧民族であるオイラトが築き上げた帝国、ジュンガルの襲来により1730年代から1740年代にかけて小ジュズと中ジュズが相次いでロシアに服属し、残った大ジュズも1820年代にはロシア帝国の統治を受け入れます。
ロシア革命ののち、1920年にキルギス自治ソビエト社会主義共和国が誕生、1925年にカザフ自治ソビエト社会主義共和国に改称しました。なお、同年、キルギス州が昇格し、キルギス自治ソビエト社会主義共和国として別に誕生しています。
カザフ自治ソビエト社会主義共和国は、1936年12月5日にはカザフ・ソビエト社会主義共和国に昇格します。
1991年ソビエト連邦の崩壊を受け、その直前の12月16日にカザフスタン共和国として独立し、現在に至っています。
前回のイスラム化以前より、ざっと、カザフスタンの歴史を追ってきましたが、この地で多くの国が勃興し、滅亡していきました。
ただ、やはり変わらないのは、主民族がテュルク系民族であり、そこにイラン人やモンゴル人が入り、そしてロシア人が入植してきたのです。
多くの民族や文化の交差点として、現代のカザフスタンが生成されたと言えるのではないでしょうか。
このようなカザフスタンだからこそ、日本人によく似た人々もいて、どこかの「風の谷」に「ナウシカ」もいるのかもしれません。
注:『COMIC BOX 1984年5・6月号』 (1984), 山根貞男・宮崎駿 対談「価値観の逆転するものを作りたかったんです」
<参考>
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・世界史の窓 https://www.y-history.net/