05.03
ヨーロッパ随一の版図を誇ったリトアニア大公国、ポーランドとの蜜月?、そして二つの国を待ち受ける運命とは!近世以前のリトアニアの歴史をたどる!
今回のブログは、前回に引き続いてリトアニアを紹介します。
一時はヨーロッパ最大の版図を誇ったリトアニア大公国ですが、それ以前はどのような国だったのでしょうか。
そして、ポーランドとの密接な関係とその後の戦乱の時代を経、周辺諸国による国家占領と解体の危機の歴史を見ていきます。
大公国以前のリトアニア
最終氷期ののち、気候がかなり暖かくなり森林が発達した紀元前8千年代に、それまで狩猟民として移動生活を行っていた人々が、次第にリトアニアの地に定住するようになります。
紀元前3千年~2千年代になって、インド・ヨーロッパ人がこの地に渡来します。
彼らは、以後千年以上の時をかけて現地の人々と混ざり合い、多様なバルト三国の部族が形成されていきました。
さて、琥珀の道をご存じでしょうか。
古来からリトアニアを含むバルト海沿岸地方は、琥珀の産地として有名でした。
バルト海沿岸の住民であるバルト人注1は、紀元前後より勢力を広げていたローマ帝国と直接的な関係はありませんでしたが、琥珀の貿易での接点はありました。
ローマ帝国より北東に延びる琥珀交易のための道が「琥珀の道」です。
帝政期ローマの政治家、歴史家であるコルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus, 西暦紀元55年頃 ~120年頃)は、その著書「ゲルマニア」の中で、バルト人と考えられる「エスティ人(Aesti)」について、「浅瀬や浜辺でも琥珀を集める唯一の人々」と記述しています。
今でも、リトアニアの琥珀は有名ですね。
リトアニア大公国の栄光とポーランド・リトアニア合同
9世紀から11世紀にかけて、沿岸部のバルト人はヴァイキングの襲撃にたびたび悩まされていました。
また、10世紀から11世紀にかけては、リトアニアはキエフ大公国に貢献する国の一つで、1040年には同国のヤロスラフ1世賢公による侵攻も受けます。
11世紀のキエフ大公国
この時期は受難の時期といって良いでしょう。
ところが、12世紀半ば以降、立場が逆転します。
キエフ大公国に攻め入ったのは、リトアニア人でした。
遠く離れたノヴゴロド共和国さえも、12世紀末には新興のリトアニアによって脅かされることになるのです。
1400年代のノヴゴロド共和国の位置と領域(ウィキペディア、ノヴゴロド公国より)
12世紀後半には、リトアニアに組織的な軍事力が存在したと言います。初期の国家形成が始まりです。そして、やがてリトアニア大公国へと発展していくのです。
バルト人の部族は、はじめはばらばらでしたが、1230年代、一人の英雄が登場します。ミンダウガスです。
アレッサンドロ・グアニーニの年代記におけるミンダウガス(ウィキペディア、ミンダウガスより)
ミンダウガスはリトアニアの国土を統一し、1253年7月6日にはリトアニア王として戴冠します。
ミンダウガスによる10年の統治期間には、モンゴルの攻撃も受けましたが、バルト海沿岸部への侵略を阻止しています。
ミンダウガスへの評価は幾世紀にもわたって定まっていませんでしたが、現在ではリトアニアの建国者としての地位を得、戴冠した7月6日はリトアニアの祝日になっています。
1263年のミンダウガスの暗殺後、国は混乱し、1270年のリトアニア大公トライデニス注2の出現を待つことになります。
リトアニア大公トライデニス(ウィキペディア、トライデニスより)
なお、リトアニアは伝統的で異教的な風習や神話の残る国でした。
異教徒の国であるがゆえに、キリスト教十字軍の標的となり、100年間にも及ぶ悲惨な戦いが続くのですが、それにもかかわらず、リトアニア大公国は急速な拡大を遂げ、14世紀末には現在のベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、ロシアの一部を含むヨーロッパ随一の版図を誇る大国となったのです。
拡大するリトアニア大公国(ウィキペディア、リトアニア大公国より)
1385年、時の大公ヨガイラはポーランドの女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド王を兼ねるようになります。
このときポーランド王国との間にクレヴォ合同が結ばれ、ポーランド・リトアニア合同が形成されます。
1387年のリトアニアとポーランド(ウィキペディア、クレヴォ合同より)
ヨーロッパで唯一、キリスト教を受容していなかったリトアニアに、ドイツ人の東方移民をも兼ねて宗教戦争を仕掛けてくるドイツ騎士団への対抗策として選んだ道が、このポーランドとの合同でした。
クレヴォ合同には、婚姻の申し込みの他、リトアニア人のローマカトリックへの改宗やリトアニア大公国の版図をポーランド王家にまとめることなどが契約されていました。
この文書は、婚姻の条件に関するヤドヴィガ側へのヨガイラの約束であり、ヤドヴィガ側の義務は何も記されていませんでした。
これを機として、リトアニアのキリスト教化が進んでいったのです。
1392年、ヴィータウタスが大公となります。彼の治世において、リトアニアは領土拡大のピークを迎えます。
ヴィータウタス大公(ウィキペディア、ヴィータウタスより)
15世紀末になるとモスクワ大公国が勢力を拡大し、戦争の火種となったため、リトアニアはポーランドとのさらなる緊密な同盟関係を模索せざるを得なくなります。
16世紀半ばの1569年、ルブリン合同によりポーランド・リトアニア共和国が誕生します。
リトアニアにポーランド化の波が押し寄せ、政治、言語、文化、国民のアイデンティティなど、リトアニアの生活のありとあらゆる側面に影響を及ぼしていきます。
戦乱の時代と占領、そして分割へ
1655年、歴史上はじめてリトアニアの首都ヴィリニュスが外国軍によって占領されます。
ロシア軍による占領により、8,000人~10,000人の市民が犠牲となり、街は17日間にわたって燃え続けました。
ロシアの占領は1661年まで続きました。
また北方戦争(1655年~1661年)では、スウェーデン軍によってリトアニアの領土と経済が壊滅的な打撃を受けます。
リトアニア大公国のほぼすべての領土がスウェーデン軍とロシア軍によって占領されたのです。この時期はトヴァナスTvanas(大洪水)と呼ばれています。
戦争からの回復を目前に、大北方戦争(1700年~1721年)の勃発により国土はふたたび荒廃します。
この戦争、及び疫病と飢饉によって国民の4割が死亡しました。
この後、特にロシアのリトアニア国内への影響力が増大していきます。
最終的に、ポーランド・リトアニア共和国は、1772年、1792年、1795年にロシア帝国、プロイセン、ハプスブルク帝国によって分割されてしまいます。
リトアニアの版図の大部分はロシア帝国の一部となったのです。
その後、現代リトアニアへと続く、民族復興運動が起き、第一次世界大戦の後、独立を果たすのですが、間もなく再び戦乱の暗雲が立ち込め、ソビエトによる支配の時代へと進んでいきます。
現代のリトアニアは小さな国ですが、その歴史は簡単に描き切れないほどのものでした。
二度の大戦を経て、現在のリトアニアの独立までの歴史は、また改めて紹介したいと思います。
注1 バルト人:バルト海南東岸周辺に住むバルト語派を話す民族。リトアニア人、ラトビア人など。言語と文化が途絶えた民族にプロイセン人など。バルト語派は数多くの湖や沼沢がバルト人を外界から隔てたため、古代語の特徴を保つとされている。
注2 トライデニス:1220年頃~1282年、リトアニア大公(在位1270年頃~1282年)。ドイツ騎士団やハールィチ・ヴォルィーニ大公国に対して不屈の闘争を行い、国境線を著しく拡大させた。
<参考>
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・リトアニア/リトアニア=ポーランド王国,世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0602-072.html