2024
09.23

世界最小の国!バチカン市国、サン・ピエトロ大聖堂に使徒ペトロは本当に眠るのか!?

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先日のブログで、面積の小さい国と地域、人口の少ない国と地域をランキングしてみましたが、どちらもランキングトップとなったのはバチカン市国でした。

今回はそんな小さな国、バチカン市国について、見ていきたいと思います。

バチカン市国の概要

バチカン市国の人口は496人(2024年7月1日推計)、面積は0.44km2、世界最小の国家です。

ローマ市中にある国ですが、ローマ帝国の時代にさかのぼるとローマ市郊外の墓地だったといわれています。

1929年、イタリア王国との間で結ばれたラテラノ条約により独立国家となりました。

元首はローマ教皇フランシスコ、教皇の公務執行中央機関であるローマ教皇庁が政府に相当します。

バチカン市国の国籍保有者はすべて司祭や修道女などの聖職者です。国籍の取得は職務に対応した特殊なものであり、たとえバチカン市国国内で出生したとしても国籍の取得は出来ません。

教皇庁で働く聖職者以外の一般職員は3000人にも上りますが、そのほとんどはイタリアに居住し、そこから通勤しています。

狭い領土の中にはサン・ピエトロ大聖堂、バチカン美術館、サン・ピエトロ広場、そして教皇の居住するバチカン宮殿などが建ち並び、バチカン市国の全域が世界遺産になっています。

    図1.バチカン市国の国旗

図2.バチカン市国

図3.ローマ市とバチカン市国

図4.ヨーロッパの中のバチカン市国

バチカン市国建国の礎、ラテラノ条約とは?そしてバチカンの囚人とは!?

ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世によって、聖ペトロの墓所とされたバチカンに最初の教会堂が建設されたのは西暦326年です。

この地に住んだローマ司教が教皇としてすべてのカトリック教会に強い影響力を持つようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、教皇領も拡大し、栄えるようになります。

一方、イタリア半島は長くフランスやオーストリア帝国などの大国の影響下にあり、小国が林立する状態にありました。

1848年革命(注)の後、イタリア統一への気運が高まりサボイア家が統治するサルディーニャ王国が北イタリアを統一、その後ローマ以外の教皇領を併合してイタリア半島中部に領域を広げます。

Papal States Map 1870

図5.イタリア併合前(1870年)の教皇領(図のPAPAL STATESと記された領域),ウィキペディア 教皇領より

ローマ教皇庁はイタリア王国政府と関係を断絶、1870年イタリア王国はローマを占領するとローマ教皇ピウス9世に対し、バチカン及びラテラノ宮殿の占有を認め、教皇庁が失った領土や財産に対する賠償として年額32万5千リラを支払うことを申し出たのです。

しかしながら、教皇庁はカトリック教会が特定の政治権力の影響を受けないことを理由にこれを拒否、ローマ教皇は自らを「バチカンの囚人」と称しました。

ピウス2世とその後の教皇はバチカン及びローマ市内の限られた区域以外に足を運ぶことがなくなりました。

1926年、イタリア王国で権力を握っていたムッソリーニ率いるファシスト政権はバチカンとの交渉を開始、3年を経て1929年2月11日にラテラノ条約が結ばれます。

Firma dei Patti Lateranensi

図6.ラテラノ条約調印式に臨むバチカンのガスパッリ枢機卿とイタリアのムッソリーニ,ウィキペディア ラテラノ条約より

ラテラノ条約では教皇庁の置かれたバチカン一帯がバチカン市国としてイタリア政府から政治的に独立することが認められたのです。

なお、教皇との和解を実現したムッソリーニの措置はイタリア国民にも広く指示され、独裁体制はより強固となっていくのでした。

ペトロの墓の上に建つサン・ピエトロ大聖堂

さて、バチカンの象徴とも言えるサン・ピエトロ大聖堂、その伝承について少し解説したいと思います。

                図7.サン・ピエトロ大聖堂

かつてはローマの郊外であったバチカンの丘、ここはカトリック教会が初代ローマ教皇とみなすペトロの墓があると伝えられていました。

The Apostle Saint Peter

図8.ルーベンスによるイエス・キリストに従った使徒の一人、そして初代教皇のペトロ,ウィキペディア ペトロより

そしてまさしく、ペトロの墓の上にサン・ピエトロ大聖堂(聖ペトロの大聖堂)が建てられたというのです。

とはいえ、サン・ピエトロ大聖堂が、本当にペトロの墓所に位置しているのかは長い間謎でした。

1939年、当時のローマ教皇ピウス12世はクリプタ(地下聖堂、墓所)の学術的調査を依頼します。

調査の際に、紀元2世紀に作られたトロパイオン(ギリシャ式記念碑)を発見、その中央部から古代、王の色とされた紫の布で包まれ丁寧に埋葬された60代の男性の遺骨が見つかったのです。

伝承通り、バチカンの丘、サン・ピエトロ大聖堂の地下には、ペトロが埋葬されていた!

とはいえ、状況証拠でしかなく、真偽の論争は今も続いているそうです。

現在、ペトロのものとされる遺骨は、クリプタに設けられた専用の施設に安置されており、通常は非公開となっています。

最後に

今回は、バチカン市国の建国、そしてバチカン市国の象徴とも言えるサン・ピエトロ大聖堂に伝わる伝承について記事にしました。

バチカン市国は世界最小の国でありながら、全域が世界遺産であり、ローマ時代からの歴史を持つ魅力あふれる国です。

語りきれなかった魅力については、また改めてブログの記事にしていきたいと思います。

注 1848年革命:フランス革命とナポレオンにより荒廃、混乱したヨーロッパをそれ以前の状態、つまり革命以前の絶対王政を復活させたウィーン体制、このウィーン体制に対する不満として起こった一連の革命。

<参照>

・バチカン基礎データ,外務省  https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vatican/data.html

・国際連合 2024年、世界将来推計人口 https://population.un.org/wpp/Download/Standard/Population/

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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