09.06
南太平洋のど真ん中、ゴーギャンの愛したタヒチ、そして”古城のよう”と例えられたモーレア島
ゴーギャンが愛した島、タヒチは南太平洋のフランス領ポリネシア、ソシエテ諸島に含まれるウィンドワード諸島にあります。
地図でいうと、南太平洋のど真ん中と言えばよいのでしょうか。
ポリネシアの定義に、ポリネシア・トライアングルという三角形が良く使われるそうですが、北端のハワイ諸島、南東端のイースター島、南西端のニュージーランドの3つの地域を結ぶ三角形のことをこう呼ぶそうです。そして、この三角形のほぼ中央部にタヒチが位置しており、まさに南太平洋のど真ん中と言っても過言ではないでしょう。
タヒチ島は、島の最高峰であり死火山であるオロヘナ山を有する西側の大きな島タヒチ・ヌイと、東側の小さな島タヒチ・イティが地峡でつながってひょうたんのような形をしています。
タヒチ島の首都パペーテは、タヒチ・ヌイの北西海岸に位置しており、フランス領ポリネシアの首都でもあります。
パペーテは、1818年にイギリス人宣教師ウィリアム・クックにより築かれた町であり、1820年にはタヒチ王国の首都となります。
1842年にはタヒチ島がフランスの保護領となると、パペーテはフランス領タヒチの首都となりました。
2017年8月17日に行われた人口センサスの結果によると、パペーテの人口は26,926人ですが、パペーテから連なる都市的地域の人口は13万人を超えており、フランス領ポリネシアの人口275,918人のほぼ半数に相当します。
ゴーギャンとタヒチ
フランスのポスト印象版画家であるポール・ゴーギャン(1848年6月7日~1903年5月8日)は、多くのタヒチを題材とした絵画で知られています。
ゴーギャンは、1891年に初めてタヒチに滞在します。最初の3週間は、首都パペーテで過ごしたそうですが、この当時すでにパペーテは西欧化が進んでいたようです。
その後、島のオロヘナ山を挟んで反対側に位置するパプアーリ(PAPEARI)に移り住み、自分で竹の小屋を建て、アトリエとしました。このアトリエで、タヒチを題材とした多くの傑作が生みだされることになるのです。
ゴーギャンは1893年8月にフランスに帰国しますが、タヒチを題材に作品の制作を続けます。
そして、1895年6月にふたたびタヒチに向けて出発します。この一因としては、ゴーギャンがパリの美術界で孤立してしまい、逃げ場を求めたためと言われています。
1895年9月にタヒチに着いたのちは、その後の6年間のほとんどをパペーテ周辺の画家コミュニティで暮らしました。
後にパペーテの南西、ピュナオーイア(Puna auia)に家を建て、広大なアトリエを構えました。
ゴーギャンは、その後、より原始的な社会にあこがれ、1901年に同じフランス領ポリネシアのマルキーズ諸島のヒバ・オア島に移り住み、1903年にその地で生涯を閉じることになるのです。
”古城のよう”なモーレア島
ゴーギャンに「古城のよう」と言わしめたモーレア島は、タヒチの北西方向およそ18kmに位置し、日本人観光客にも人気のある島の一つです。
ゴーギャンがタヒチで最後に暮らしたピュナオーイアからは、海を挟んで一望することができます。
<参考>
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・フランス領ポリネシア統計局 http://www.ispf.pf/