05.09
大河流れる肥沃な大地のもと、花開いた奥州文化の礎、水陸万頃の地、奥州市
奥州市は岩手県の内陸南部に位置する自治体です。
奥州市
2006年(平成18年)、水沢市、江刺市、胆沢(いさわ)郡前沢町、胆沢町、衣川村の2市2町1村が合併し、誕生した自治体で、県内で2番目の人口119,422人(平成27年国勢調査)を抱える市となりました。
市内中央部には、東北地方で流路延長、流域面積とも最大となる河川、北上川がゆったりと南流しています。
そして、市内最高峰の焼石岳(1548m)を主峰とする焼石連峰に端を発する胆沢川が東流し、国内でも有数の広大な扇状地である胆沢扇状地を形作りながら、北上川に流れ込んでいます。
胆沢扇状地の空中写真
この扇状地上には、広大な耕地の中、民家が散らばって点在しており、散居集落、散村とも呼ばれる集落形態が広がっています。
散居集落は、日本国内では富山県の砺波平野や島根県の出雲平野、北海道の十勝平野などに見られる集落の一形態です。
上空写真でみると、扇状地と扇状地に広がる集落の形態がはっきりと確認できます。
胆沢扇状地の散居集落(胆沢小山下大畑平周辺)
さて、奥州市周辺は、北上川や胆沢川によって供給される豊富な水により、全国有数の米の産地となっていますが、一方で、前沢牛などのブランド牛肉の産地でもあります。
牛の生産にあたっても、米作りでできる稲わらが、牛の良質な餌の一部となり、さらには水田に有機物がふんだんに投入されるという、循環型農業が形成されているのです。
まさに、ゆったりと流れる北上川、そしてその周辺に形成された肥沃な土壌が、現在の奥州市の産業の礎となっているといって良いでしょう。
それでは、奥州市の歴史を順を追ってみていきましょう。
奥州市の歴史(アテルイ登場以前)
奥州市の一部を含む胆沢盆地は、古来より水陸万頃(すいりくばんけい)の地として、知られてきました。
水陸万頃とは、水と土地が豊かなさまをいい、平安時代初期に編纂された勅撰史書「続日本紀」の延暦8年(789年)の中にその記述がみられます。
東北地方が大和王権から独立を保ち、蝦夷(えみし)として恐れられていた古代から、胆沢平野は仙台平野南部に続いて東北地方の中心地のひとつでした。
奥州市胆沢南都田の前方後円墳、角塚古墳は、日本最北端の古墳であり、5世紀末から6世紀初めの築造と推定されています。
この時代に強大な権力を持った豪族がいたことが伺われます。
角塚古墳
さて、5世紀前後、仙台平野を中心とする東北地方南部が大和王権に服属します。
これにより、大和王権はおのずと胆沢盆地を中心とする蝦夷と対立することになるのです。
そして、いよいよ大和王権は蝦夷の族長アテルイとの対決を迎えます。
次回も、引き続き奥州市の歴史を中心に紐解いていきます。
ご期待ください。
<参考>
・大地に刻まれた歴史/記念碑一覧表,美土里ネット胆沢平野,胆沢平野土地改良区 http://www.isawa-heiya.or.jp/publics/index/54/
・おうしゅう旅浪漫,奥州市商工観光部商業観光課 https://www.city.oshu.iwate.jp/site/kanko/
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・政府の総合統計窓口 https://www.e-stat.go.jp/