2021
03.08

花火の街、長岡、祈りと願いを込めて、夜空にはばたけフェニックス!

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新潟県長岡市、その中心市街地は大河川、信濃川を河口からおよそ28km内陸部へたどった右岸側を中心に川に沿うように広がっています。

長岡市の市域は広く、その面積は891.06km2、佐渡島よりも広い面積を有しています。

平成17年(2005年)から平成22年(2010年)にかけての合併で、面積は合併前の262.45km2からおよそ3.4倍に、人口はおよそ1.4倍の282,674人(平成22年国勢調査結果、平成27年の国勢調査では275,133人)になりました。

また、平成18年(2006年)に三島郡寺泊町、和島村と合併し、はじめて海とつながるとともに、信濃川河口部が市域に含まれることとなったのです。

長岡の歴史

中世、蔵王堂(西蔵王三丁目の金峰神社)が岩野原から現在の位置に移築され、越後守護代の長尾氏(後の上杉家)がこの地に蔵王堂城を築きます。

信濃川に面する蔵王堂城跡

これが長岡の歴史の始まりと言ってよいかと思います。

慶長3年(1598年)になって上杉家が陸奥会津(会津藩)に転封されると、かわって入封した堀氏が城主となります。

堀氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の乱で東軍につき、旧領を安堵され、蔵王堂藩が成立しました。

慶長11年(1606年)、藩主の早世により蔵王堂藩は、一旦断絶し、慶長15年(1610年)に徳川家康の六男松平忠輝が入封した高田藩(藩庁は現在の上越市の高田城)の属領となります。

元和2年(1616年)、松平忠輝が大坂夏の陣の不始末から除封されると、夏の陣で軍功のあった堀直寄(なおより)が領主となります。

堀直寄は、蔵王堂城が信濃川に面し洪水に弱いことから、川よりやや離れた長岡(現在の長岡駅付近)に長岡城を築き、城下町を移して越後長岡藩を立藩しました。

長岡駅にほど近い長岡城本丸跡

その後、堀直寄は、城下町の整備など以後の発展の基礎を築き、元和4年(1618年)、加増を受けて越後村上藩へ転封されます。

長岡城は完工を目前にして、幕府の要職にあった徳川家の譜代大名、牧野忠成に引き継がれることになります。

藩は、藩領である新潟湊の運上金や信濃川水運の船問屋利権を有し、豊かになりますが、諸経費の増加や年貢収納率の低下により次第に藩財政がひっ迫するようになります。

9代忠精(ただきよ)以降、藩主の老中や京都所司代への任用が増え経費がかさむとともに、天保年間の1843年には、上知令により新潟湊が幕府領となってしまいます。さらには、軍備増強の必要性も高まり、財政問題は根本的な解決が迫られました。そして、幕末になり河井継之助の藩政改革が断行されることになるのです。

慶応4年(1868年)、藩政改革は半ばでしたが、戊辰戦争が始まります。戦争では河井継之助主導のもと官軍と戦い、城下の9割を焼失してしまいます。

ところで、明治初年、越後長岡藩の窮乏を見かねた支藩の三根山藩は米百俵を寄贈するのですが、ときの大参事小林虎三郎は、「食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と教育第一主義を唱え、米百俵の売却益を教育費に充ててしまいます。

この、いわゆる「米百俵の精神」は藩祖以来の質朴剛健な三河武士の精神に由来する藩風とともに生まれたものであり、その後も長岡人の気風として受け継がれていきます。

長岡は、明治維新後復興に努め、長岡藩時代から有名であった繊維卸をはじめとする商業都市として復活、1898年(明治31年)の北越鉄道(現、信越本線)長岡停車場(長岡駅)の開業、1931年(昭和6年)の上越線(群馬県高崎市の高崎駅から長岡市宮内駅を結ぶ)の全通でさらなる発展を遂げます。

しかし、悲劇が再び長岡を襲います。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月1日のことでした。

甲信越地方で最大規模の空襲被害となった長岡空襲により町の8割を焼失してしまうのです。

空襲で市街地のほとんどが廃墟となった中、戊辰戦争の復興の際使われた「長岡魂」の言葉が市民に広がっていきました。

「長岡魂」で戦災復興に立ち上がった市民たちは、昭和28年(1953年)11月に、予定よりも1年早く、全国の戦災都市のトップをきって、復興の日を迎えることができたのです。

そして二度に渡る復興に因んで、市の紋章は不死鳥をイメージして図案化した「長」の字になったのです。

不死鳥を図案化した長岡市の市章,ウィキペディア、長岡市より

長岡の花火の歴史

長岡といえば、日本三大花火のが有名ですが、その歴史をたどってみました。

長岡花火財団公式サイトによると、明治12年(1879年)9月14日、15日に千手町八幡様のお祭りで、遊郭関係者が資金を供出しあい、350発の花火を打ち上げる、とあります。

なぜ、遊郭関係者が花火を打ち上げたのでしょうか。

長岡では、元和2年(1616年)ころには交通の要衝だった信濃川沿いの千手町村に遊郭らしきものができていたようですが、弘化3年(1846年)には長岡藩が正式に千手町村を南廓、石内村を北廓と定めます。

一説によると、片貝(現在の小千谷市片貝町)で水子供養の花火が打ち上げられていて、長岡の芸妓が片貝の富豪に連れられて花火見物に出かけたのが縁と言われています。

芸妓たちは花火の華麗さに魅せられ、水子供養のための慰霊の花火として、そして遊郭の賑わいや繁栄を目的として、花火は打ち上げられたようです。

花火大会は好評で、毎年9月に開催していくことになります。

芸妓たちがスポンサーになるため、できるだけ色のきれいなものをということで、花火大会が始まって早々に赤い花火ができます。

当時は東京でも鮮やかな色の花火はなかったのですが、長岡では早いうちから赤い色を使っていました。

芸妓たちのリクエストに応え、花火師たちががんばったのでしょう。

1926年(大正15年)になって新聞社と長岡商工会議所が中心となり長岡煙火協会をつくり、市民の花火大会にしようと、遊郭から引き上げることになりました。

その後、戦争による中断、戦災や震災を乗り越えて、幾度もの復活を経て、先人たちを思い、平和を希求する花火は今に受け継がれています。

今回、参考にしたWebサイト「な!ナガオカ」の記事の中で、インタビューを受けている河合継之助記念館館長で郷土史家の稲川明雄さんは、長岡の花火をこう語っています。

「信濃川上に打ち上がる長岡の花火は方丈記のよう。川が流れているから水面に花火が映らない。『ゆく河の流れは絶えずして』という無常を感じます。綺麗なもので覆い隠そうとしても背後には汚いものや嫌なものもある。花火は人生や人間の弱い部分を映し出すものです。長岡の花火はいわゆる“玉屋、鍵屋”のパッと咲いてパッと散るような花火ではなく、未練たらしい、ゆったりした花火でしょ。だから感動するんですね」

2005年(平成17年)には、市民からの協賛金を募って、新潟県中越地震からの復興祈願花火「フェニックス」を打ち上げました。この花火は、その後も継続して打ち上げられ、長岡を象徴する花火となったのです。

2020年の長岡の花火は、残念ながら中止となりました。

長岡花火財団では、2021年長岡まつり大花火大会を開催する準備を進める」方針を決定し、準備に着手しているそうです。

日本三大花火のひとつ、そして「哀愁のある、未練たらしい花火」を、「慰霊・復興・平和」への祈りを込めながら、見てみたいとは思いませんか。

注:上知令 1840年代から1870年代にかけて、江戸幕府や明治政府が出した土地没収の命令

<参考>

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・「長岡花火」のルーツは遊郭にあり!?花火大会始まりの歴史を探る,まちを知る,な!ナガオカ https://na-nagaoka.jp/archives/10123#:~:text=%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%97%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%AF%E6%98%8E%E6%B2%BB,%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%AA%AC%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8B%EF%BC%89%E3%80%82

・一般財団法人長岡花火財団,長岡まつり・大花火大会の歴史,長岡花火 https://nagaokamatsuri.com/learn/history/

・長岡市における戦災の状況(新潟県),総務省 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_02.html

・監修-浮田典良・中村和郎・高橋信夫,日本地名大百科 ランドジャポニカ,小学館

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