03.15
映画の舞台になった大都市カサブランカは、大地震、大津波で破壊され、復活した街だった!
カサブランカは、アフリカ大陸の北西部、大西洋と地中海に面する国、モロッコの最大都市であり、モロッコの商業、金融の中心地です。
2014年に実施された人口センサス結果によれば、人口3,343,642人、人口密度は15,263人/km2でした。
2020年の推計人口では、その都市圏人口は4,191,000人、世界第110位の大都市となっています。
カサブランカは同名の映画の舞台となったことでも有名です。
イングリッド・バーグマンの美貌、ハンフリー・ボガードのダンディズムは、今でも色あせることはありませんね。
アンファの街と港の建設
さて、カサブランカは、そのむかし、アンファ(Anfa)と呼ばれていました。
現在でもその古い地名を有する地域が、カサブランカ市街地北西部に残っています。
この町は、紀元前10世紀ころ、ベルベル人注1によって建設され、その後フェニキア人やローマ人によって港として利用されていました。
紀元前15年になるとローマ帝国によって、この地に重要な商業港が築かれます。
この港では、ローマ帝国元老院議員が着用するトガの紫色の縞模様を染色するための特別な染料の交易が行われたのです。
トガをまとったローマ人(ウィキペディア、「トガ」より)
ベルベル人でありアンダルシア人でもあったレオ・アフリカヌス(Joannes Leo Africanus,1494-1554年)は、その著書「アフリカの記述(Descrittione dell’Africa)」の中で、アンファを西暦744年にベルベル人の王国「バルガワタ(Barghawata)」(744-1058年)に築かれた大都市としています。彼は、アンファを大西洋沿岸でもっとも繁栄した都市であり、その繁栄は肥沃な土地のおかげによるものと考えていました。
ベルベル人の王国バルガワタ(Barghawata)、ウィキペディア ”Barghawata”より
その後アンファは、ベルベル人のイスラム王朝「ムラービト朝」、「マリーン朝」に支配されますが、特にマリーン朝のもとで港としての重要性を増大させました。
ベルベル人によるイスラム王朝ムラービト朝の最大版図、ウィキペディア ”Almoravid dynasty”より
ベルベル人によるイスラム王朝マリーン朝の1360年の版図、ウィキペディア ”Marinid Sultanate“より
15世紀、マリーン朝が大衆の反乱により追放され、アンファの街は独立国家となりました。
独立国家となったのち、アンファの港は海賊や私掠船注2にとって安全な港となり、ポルトガルの標的となりました。
廃墟となったアンファの港に1515年、ポルトガル人によって軍事要塞が建設されます。
町の名はカサブランカへ、そして大地震と町の放棄、復活
このとき、港の周辺に広がった町はポルトガル語で「白い家」を意味するカサブランカと呼ばれるようになります。
港として繁栄していたカサブランカですが、1755年、巨大地震と大津波が襲いかかります。リスボン地震です。
この地震はポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した地震であり、モロッコでも最大20mの津波に襲われ、地震、津波により1万人が死亡したともいわれています。
モロッコ沿岸に大津波をもたらしたリスボン地震の津波(ウィキペディア、”History of Casablanca”より)
この地震により、カサブランカの街は壊滅的な被害を受け、ポルトガルに放棄されることになります。
そんなカサブランカを救い、再建したのは現代モロッコにつながるアラウィー王朝のスルタン、ムハンマド3世でした。
町の発展とフランスの支配、そして第二次世界大戦へ
19世紀になるとカサブランカの街は、イギリスへの羊毛の主要な供給基地となり、街の人口は増加していきます。
1860年代の人口は約5,000人でしたが、1880年代には約10,000人、そして1912年のフェス条約によってフランスの保護領となって以降の1921年には11万人まで膨れ上がりました。
フランス領の時代、ヨーロッパ人の占める人口はカサブランカの人口のおよそ半数に達したそうです。
そんななか、1939年になって第二次世界大戦がはじまります。
モロッコのフランス人入植者は、対ドイツ和平派のフィリップ・ペタンを支持するものが多かったのですが、政治意識の高かったモロッコ人は対ドイツ抗戦派の組織、自由フランスのリーダーであったド・ゴールや連合国を支持する傾向がありました。
1942年11月11日フランスがドイツに降伏しましたが、一方でアメリカ軍は対ドイツ和平派のヴィシー政権支配下にあったカサブランカを占領し、カサブランカは、アメリカ航空機のヨーロッパでの第二次世界大戦における中継基地となったのです。
映画カサブランカの舞台となったのは、1941年12月、親ドイツのヴィシー政権の支配下にあるカサブランカでした。アメリカ軍による制圧の1年近く前です。
このような時代背景も考えながら、もう一度名画を鑑賞してみるのも良いかもしれませんね。
注1:ベルベル人 エジプトの西の北アフリカ地中海沿岸地域に住む人々。
注2:私掠船 国王や政府から許可を得て海賊行為を行った船。
<参考>
・Demographia, 2020.04, Demographia World Urban Areas 16th Annual Edition, http://www.demographia.com/
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・モロッコ計画事務局 https://www.hcp.ma/