09.14
津軽富士、岩木山のふもとに広がる弘前市、地名の由来は、落雷で天守炎上したため?ねぷたまつりの題材は喧嘩ねぷたで変化した?
青森県弘前市は、1889年(明治22年)4月1日に最初に市制を施行した都市のひとつです。
弘前市の現在の人口は、2015年(平成27年)の国勢調査によると177,411人、このうち、2006年の合併前の旧弘前市は163,343人、旧岩木町は10,780人、旧相馬村は3,288人でした。いずれも2010年(平成22年)の前回国勢調査よりも減少しています。
弘前市は、戦前は陸軍第八師団の軍都として、また旧制弘前高校をはじめとする学園都市として栄えましたが、戦後は国立大学が新設され、現在も学園都市の性格を保ち続ける都市です。
弘前市におけるリンゴの生産量は全国一であり、弘前さくらまつりは毎年200万人がお花見を楽しむと言われています。
また、ねぷたまつりは毎年100万人の観光客でにぎわう観光の街ともなっています。
弘前の街と岩木山や白神山地を含む地図を作ってみました。
市街地や道路などを入れて完成の予定です。ブログの図表を少しずつですが、見直していきますのでしばらくお待ちください。
岩木山や白神山地の山容を表すのに、GoogleEarthの空中写真をもとに陰影をつけています。山々の雰囲気が少しでも伝わったでしょうか。
そう、弘前市は津軽平野の内陸部に位置し、その西に岩木山、南に白神山地、ここでは描き切れていませんが東には八甲田山の山々に囲まれています。
岩木山は、津軽富士とも呼ばれる円錐形の成層火山であり、富士山と同様に古くから山岳信仰の対象とされました。江戸時代には弘前藩の鎮守の山とされて歴代藩主が岩木山神社に寄進を行ったため、その社殿は荘厳なものとなり、「奥の日光」と呼ばれるに至ったそうです。
また、白神山地は「人の影響をほとんど受けていない原生的なブナ天然林が世界最大級の規模で分布」していること理由として、1993年(平成5年)に法隆寺地域の仏教建造物、姫路城、屋久島とともに日本で初めて世界遺産に登録されています。
さて、弘前市ですが、ざっとその歴史を追ってみましょう。
弘前市の歴史
弘前の地は、むかし高岡、または鷹岡と呼ばれていました。
南部氏の一族ともいわれ、南部氏に臣従していた大浦為信が、1590年(天正18年)に豊臣秀吉から所領を安堵され、津軽為信と改称、1594年(文禄3年)に現在の弘前市堀越に堀越城を築きます。
その後、堀越城が軍事に不向きであったため、新城の候補を鷹岡(現在の弘前城跡地)に選定し、1603年(慶長8年)築城を開始したものの、1604年(慶長9年)の為信の京都での客死により築城は一旦中断されます。1609年(慶長14年)2代目信枚(のぶひら)のときに築城は再開、1611年(慶長16年)になって鷹岡城はほぼ完成しました。
この鷹岡城ですが、1627年(寛永4年)に落雷により天守で炎上、内部の火薬に引火し、天守のほか本丸、諸櫓を焼失することになります。この火災は、藩主信枚の伯母の祟りと信じられていました。
この災厄の後、1628年(寛永5年)鷹岡を弘前に改称します。
弘前の名称は、信枚が弟子入りしていた天海(徳川家康の側近として活躍)に改名を依頼してついたものとされています。この名前には祟りを封じ込める意味があり、天台密教の書「九字の法」から採ったと言われています。
なお、焼失した天守は再建されることもありませんでした。現存の天守は、1811年(文化8年)に竣工したものであり、幕府への配慮から往時は櫓として取り扱われていましたが、現在は事実上の天守として、松前城天守焼失(1949年)後、最北端の現存天守とされています。
ところで、弘前城の南西側には、33もの曹洞宗のお寺が集められた禅林街と呼ばれる地域があります。
お城の周りの一部の地域を寺で囲う方式は、防御のために時々取られる方法ですが、この配置は城の裏鬼門を守るという意味もあるそうです。
このお寺の中に、津軽氏の菩提寺である長勝寺があります。
長勝寺にはかつてミイラがありました。
津軽藩の世子であった津軽承祐(ゆきとみ)公のミイラであり、1855年に17歳で亡くなり、1954年に墓の調査でほぼミイラの形で発見されたそうです。
その後、一旦は年に1度有料で公開されていましたが、津軽家の希望により1995年に火葬、埋葬されました。
ねぷたまつりの歴史
ここでは、弘前を代表するお祭りであり、国の重要無形民俗文化財に指定されている弘前ねぷたまつりの歴史について、少しみてみましょう。
旧暦七月七日にお盆を迎える準備として、川や海で水浴びや火流しをして自らの汚れを祓う「眠り流し」という習慣があります。この習慣がねぷたの起源であるという学術的な証拠は多く、定説となっています。
ねぷたの最古の図版資料とされる1788年(天明8年)の「奥民図彙」には、「祢ぶたはながれろまめの葉はとどまれ、いやいやいやよ」という当時のねぷたの囃子言葉が紹介されており、この言葉が、日本各地の眠り流しの囃子言葉と非常に似ているそうです。
また、この資料の図版から当時の燈籠の形状は角燈籠であったことがわかります。
弘前藩の資料からは、人形ねぷたが登場するのは文政年間(1818年~1829年)頃であったものと考えられます。
一方、扇ねぷたの登場は明治を待つことになります。
当時、弘前では経済状況が困窮しており、スポンサーである商人が従来の人形ねぷたを制作する費用を賄うことが難しくなっていました。そこで、材料費と手間を減らしつつも美しいねぷたを作るという命題の答えが、扇ねぷたでした。
さて、現在のねぷたの題材は勇ましい題材がほとんどです。
ところが、江戸時代後期までは恵比寿や米俵、千両箱などの縁起物が題材とされることが多かったと言います。
この変化の理由は、喧嘩ねぷたにありました。
喧嘩ねぷたとは、その名の通りねぷた運行に伴って生じる喧嘩のことを言います。
最初のころは道で正面から出くわした2台のねぷたが、道を譲れと小競り合いをする程度であったのが、江戸末期から明治にかけて激化し、町道場間の抗争にまで激化します。
江戸時代という平和な時代に生まれた縁起物の題材が、喧嘩ねぷたの激化や戦争が日常的な時代背景を通じて、現在へと続く勇壮な題材に変化したもののようです。
<参考>
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・政府の総合統計窓口 https://www.e-stat.go.jp/
・津軽の動く城~東北随一の名城と隠れた名将,ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/
・ねぷたのウソ・ホント,青森県弘前ねぷたまつり参加団体必殺ねぷた人 http://hissatsu.neputanin.com/category/think/truth
・弘前市の概要,弘前市ホームページ http://www.city.hirosaki.aomori.jp/
・【歴史】弘前のミイラ,浜田さな【趣味どっぷりアカ】,https://note.com/sana_tubuyaki/n/nade54249893e
・津軽のミイラの死因を考える,宇野コラム http://blog.livedoor.jp/yoshiharu333/archives/46525912.html