2020
09.22

ハプスブルク家の帝都として栄えた世界都市は、ワインの街だった?ウィーンのワインとコーヒーの歴史をたどってみました

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オーストリアの首都ウィーン、かつてはヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都として栄え、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、数多くの作曲家が活躍した音楽の都としても有名です。

ウィーンと町の中央部を流れるドナウ川と西側のウィーンの森を地図にしたものが、次の図です。

GoogleEarthを参考に地形に陰影をつけています。

    ウィーン市街を北西~南東に流れるドナウ川、そして西に広がるウィーンの森

ウィーンの地は、もともとラテン語でVindobonna(ヴァンドボナ=おいしいワイン)と呼ばれていました。

ローマ人が東方へ遠征する際に、この一帯のワインが美味かったため宿営地としたことが、その名の始まりといいます。

ウィーンの発展とハプスブルク家

ローマ帝国の北辺近くに位置するヴァンドボナは、ローマ帝国の防衛上重要な役割を果たしていましたが、ローマ帝国の分裂、弱体化とともに衰え、5世紀になってフン族やゲルマン人などの侵入により破壊されてしまいます。

西暦976年になって、ウィーンを含む地域がオストマルク辺境伯領(辺境伯はヨーロッパにおける貴族の称号の一種)として独立、バーベンベルク家が辺境伯の地位につきます。

このとき、ウィーンはまだ一地方都市にすぎませんでしたが、中心市街を流れるドナウ川の水運により遠隔地との交易も盛んになり、次第に交易の要所として重要な役割を担うようになります。

このような中、1155年にオーストリア辺境伯のハインリヒ2世はウィーンに居城を移します。

1246年になってバーベンベルク家の男系が断絶すると、ボヘミアのチェコ人王朝プシェミスル朝のオタカル2世王がウィーンをおさえて勢力を拡大します。

一方、神聖ローマ帝国は1256年より皇帝不在の大空位時代に入り、オタカル2世は有力な皇帝候補でもありました。

1273年、野心的であったオタカル2世への警戒から、皇帝位には当時弱小諸侯であったハプスブルク家のルドルフ1世が選ばれます。この際、オタカル2世はルドルフ1世の選出に強く反対し、ルドルフ1世を貧乏伯と小ばかにしたそうです。

ここに、ハプスブルク家最初の神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ1世が誕生しました。

1278年のマルヒフェルトの戦いで、ルドルフ1世がオタカル2世を敗死させて以降、ウィーンはハプスブルク系の統治下におかれることになりました。

そして15世紀半ばにはハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を世襲するようになり、ウィーンはその中心都市となったのです。

   ハプスブルク家の歴代君主が夏の離宮として使用したシェーンブルン宮殿とその庭園

さて、ウィーンの名前のもとになったワインの歴史をたどってみましょう。

ウィーンのワインの歴史

地名が語るように、ウィーンの地はもともと古くからおいしいワインで知られていたようですが、12世紀頃シトー派の修道士がやってきて、ブルゴーニュ式のワイン造りが伝わったこともワインの歴史に重要な役割を果たしたようです。

その後、1170年になってウィーン市民がブドウ畑購入を許され、市内の多くがブドウ畑になりました。

             ウィーンの夜明けとブドウ畑

17世紀後半には、オスマン帝国との戦争でウィーン市内でワインを入手することが難しくなります。

ところで、web上でこのときの状況を検索しましたが、具体的な状況がわかりませんでした。

つまり、人々がワインを入手するため郊外の農家に買い出しに行くようになり、ヨーゼフ2世が農家に自家製ワインの販売を許可したのか、それともヨーゼフ2世が許可して、人々が農家に買い出しに行くようになったのでしょうか。

ワインの入手が難しくなって、人々はどうしたのでしょうか。

貴族はワインが入手しずらくなった、何とかしてほしいと、ハプスブルク家に泣きついたかもしれません。ウィーン市民の中にはこっそりと郊外の農家に買い出しに行く人もあったでしょう。もちろん許可なく農家が自家製ワインを販売することは当初禁止されていたわけですから、見つかって捕まった人もいたでしょう。

おそらく、このような状況を見るに見かねたヨーゼフ2世が300日だけに限定して許可した、というのが真相かもしれません。

ホイリゲはもともと、その年の新酒をさす言葉です。その後、自家製ワインと簡単な食事を提供するお店の営業が許可されたのをきっかけとして、このようなお店をホイリゲと呼ぶようになりました。

ウィーンのコーヒーの歴史

ウィーンと言へば日本人ならウィンナ・コーヒーを思い浮かべる人も少なくないはず。

そこで、ウィーンのコーヒーの歴史についても、たどってみましょう。

1683年、オスマン帝国のモハメッド4世の命を受けたカラ・ムスタファは30万の軍隊でウィーンを包囲しました。世にいう第二次ウィーン包囲です。

包囲された町の中にはシュターヘンベルグ伯爵率いる守備隊が留まりポーランド王国からの援軍を待っていましたが、ひと月たっても援軍が来ません。

そんなとき連絡係を買って出たフランツ・ゲオルグ・コルシツキーという一人の男がいました。彼は、長年トルコ人と生活を共にしたことがあり、トルコの言葉や習慣に詳しかったのです。

トルコ人の服を身にまとった彼は、包囲網を突破してポーランド軍との連絡に成功しました。

この結果、ポーランド軍と皇帝軍はウィーンの内と外からトルコ軍に攻撃を開始し、トルコ軍は敗走したのです。

トルコ軍の敗走後には様々な物品が残されました。

その中に大量のコーヒー豆がありましたが、だれも使い方を知らず欲しい者はいませんでした。

ただ一人、コルシツキーが申し出、人々は喜んで彼に功績の褒賞としてコーヒー豆を与えました。

その後コルシツキーはトルコ風のコーヒーを飲ませるウィーン発のコーヒーハウスを開店したそうです。

さて、この話、有名な話らしいんですが、真実は異なるようです。

近年の研究によると1665年にオスマン帝国からウィーンに派遣された親善大使がウィーンの宮中でコーヒーを振舞ったという記録があります。

また、ウィーン最初のカフェは1685年にコルシツキーより先にアルメニア人のヨハネス・ディオダートが開いたもののようです。

ヨハネス・ディオダートは、ハプスブルク家より正式にオスマン・トルコとの交易を認められた商人であり、カフェではカーペットや革製品なども一緒に扱っていました。

とはいえ、ウィーンのカフェでは今でもコルシツキーの功績をたたえて彼の肖像画を飾っている店が多く、町にはコルシツキー通りがあり、その一角にコルシツキーの銅像も立っています。

ところで、日本でおなじみのウィンナ・コーヒーですが、ウィーンにはウィンナ・コーヒーという名称のコーヒーは存在しません。

ウィーンの人々が日常的に多く飲んでいるのは、エスプレッソと温かいミルクを加えた上にミルクの泡を載せた「メランジェ」というもので、カプチーノとほぼ同じものです。

日本のウィンナ・コーヒーに近いものには、アインシュペナーがあります。

アインシュペナーはコーヒーにほぼ同量のホイップクリームが載ったもので、グラスに注がれています。アインシュペナーとは一頭立ての馬車を意味し、かつては馬車の御者が暖をとるために飲んでいたことから名づけられたそうです。ホイップクリームによって全面を覆うことでコーヒーが冷めるのを防いでいたと言われています。

ウィーンの人口

さて、当ブログの本題です。

ウィーンの人口の変遷についてみてみましょう。

ターシャス・チャンドラー著「Four Thousand Years of Urban Growth: An Historical Census」の推定人口によれば、ウィーンでは1650年以降加速的に人口が増加します。

1910年から1951年にかけて2度の世界大戦を経て、人口が大きく減少、その後も隣国のハンガリーやチェコスロバキアが社会主義国になり、交流が途絶えたこともあって人口は徐々に減少します。

1989年のベルリンの壁崩壊、チェコスロバキアのビロード革命などによって共産体制が崩壊すると、人口は再び増加に転じました。

その人口は1910年のピーク時に及ばないものの、200万人到達を近い将来に控えています。

ウィーンの人口の変遷

調査年 人口 出典 備考
1200年 12,000人 Four Thousand Years of Urban Growth: An Historical Census(以下HCとする) 1155年頃ハインリヒ2世が居城をウィーンに移す
1300年 21,000人 1278年以降ハプスブルク家の統治下に
1400年 24,000人 1348年-49年ペスト大流行
1423年 14,678人 1420-21年ユダヤ人に対する大規模な迫害
1500年 40,000人 ハプスブルク家神聖ローマ皇帝位を世襲に
1600年 30,000人 1529年第一次ウィーン包囲
1650年 65,000人 三十年戦争
1700年 105,000人 1670年代ペスト大流行、1683年第二次ウィーン包囲
1750年 169,000人  
1800年 231,000人  
1850年 426,000人 1848年三月革命
1869年 630,000人 ウィーン/Wikipedia  
1900年 1,698,000人 HC  
1910年 2,100,000人 ウィーン/Wikipedia  
1951年6月1日 1,766,102人

DEMOGRAPHIC YEARBOOK/UNITED NATIONS(以下DYとする)

第一次世界大戦、第二次世界大戦、センサス

1956年 1,622,500人 DY 推計
1961年3月21日 1,627,566人 DY センサス
1971年5月12日 1,614,841人 DY  
1981年5月12日 1,531,346人 DY  
1991年7月1日 1,534,154人 DY 1989年ベルリンの壁崩壊
2001年5月15日 1,562,482人 DY  
2011年10月31日 1,743,254人 オーストリア統計局 センサス
2018年1月1日 1,888,776人 DY 推計

<参考>

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・国際連合 人口統計年鑑システム  https://unstats.un.org/unsd/demographic-social/products/dyb/

・オーストリア統計局 http://www.statistik.at/web_de/statistiken/index.html

・オーストリアワインの歴史,オーストリアワイン入門 by ワンモアグラス http://austriawine.onemoreglass.co.jp/

・歴史,我々のワイン,AUSTRIAN WINE オーストリアワインマーケティング協会 https://www.austrianwine.jp/our-wine/geschichte-jpn

・ウィーン州,オーストリア,conceptual wine boutique ANYWAY-GRAPES http://anyway-grapes.jp/producers/austria/wien/index.php

・コルシツキーがウィーン発のコーヒーハウスを開店  UCC https://www.ucc.co.jp/enjoy/encyclopedia/history/popup/w_1683.html

・コーヒーの歴史6【オーストリアとウィンナーコーヒーの誕生】,coffeemecca https://coffeemecca.jp/column/trivia/9415

・【コラム】カフェとはなにか?その歴史と今,Delocious Web http://www.deliciousweb.jp/recommended/1476

・旦部幸博,珈琲の世界史,講談社現代新書

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