05.03
ビドゴシュチの歴史(19世紀~20世紀初頭)、プロイセン支配下で官僚都市計画により整備!「小ベルリン」への変遷をたどる!(ビドゴシュチその5)
今回のブログでは 前回に引き続き19世紀から20世紀初頭のビドゴシュチ(当時はブロンベルク(Bromberg)) の歴史を解説します。
ナポレオン戦争期の変動(1807–1815)
ワルシャワ公国への一時復帰(1807–1815)
1807年、プロイセンはナポレオン戦争に於いてナポレオンに敗北します。
ビドゴシュチはティルジット条約注1で、復活したポーランド国家であるワルシャワ公国(ナポレオンの衛星国家) に編入されます。

図1. ティルジット条約は、ナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル1世が、ネマン川に浮かべた筏の上で会見したことで有名

図2. 1812年のワルシャワ公国の地図
この時期、都市は地方行政の拠点として機能し、ポーランド語行政・徴兵・近代法制度が再導入されました。
しかしこの体制は短命で、1815年のウィーン会議注2によりワルシャワ公国は解体されます。

図3. ウィーン会議における交渉の様子
再びプロイセン領へ(1815年)
ビドゴシュチは再びプロイセンに併合されます。
新設されたポズナン大公国(Großherzogtum Posen) の一部となり、ブロンベルク県(Regierungsbezirk Bromberg)の首府ブロンベルクとなりました。
この時点から、都市史の重心は完全にプロイセン型近代都市形成へと移行します。
さて、このポズナン大公国、名目上は自治を認められつつも、実際にはプロイセンの強い統制下に置かれた半自治的な領域でした。
ポズナン大公国の領域には多数のポーランド人が居住しており、プロイセンは露骨な併合政策が反発を招くことを懸念します。
そこで、妥協策としてポーランド人に一定の自治と文化的権利を保障する代わりに主権はプロイセン王国が保持すると言う形をとったのです。
とはいえ、その実体はプロイセン直轄州に近い存在でした。
19世紀前半:官僚制とインフラによる再建
行政都市への転換とポズナン大公国の終焉
ポズナン大公国ブロンベルク県の県都となったブロンベルクは、県庁、裁判所、軍司令部、税務・警察機構を備える官僚制都市として整備されていきます。
中世的城郭の遺構は撤去され、街はオープンな都市構造へ改変されました。
プロイセンははじめ、ブロンベルクが属するポズナン大公国に対しポーランド語教育を存続し、カトリック教会に一定の自由を与え、地元貴族と協調するなど比較的寛容でした。
ところが1830年、ロシア領ポーランドで11月蜂起注3が発生すると、プロイセン当局はこれを契機としてポーランド民族運動を危険視、ゲルマン化政策を強化するようになります。
学校でのポーランド語の制限、ドイツ人入植の奨励、行政・司法のドイツ語化といったゲルマン化政策が強化されていったのです。
19世紀半ば、ヨーロッパ各地で自由化運動が起きるなか、1848年になって三月革命がおこります。
ポーランド人は大公国の実質的自治回復を要求し、武装蜂起も発生しますが、プロイセン軍に鎮圧されてしまいます。
同年、ポズナン大公国は公式に廃止、ポーゼン州へ再編され残っていた自治的な地位は消滅しました。
ビドゴシュチ運河の定着
さて、このころ1770年代に建設されたビドゴシュチ運河が、19世紀を通じて内陸水運の大動脈として機能しています。
穀物・木材・工業原料が集積し、都市は交易・倉庫・物流拠点として復活したのです。
この段階で、ビドゴシュチはすでに「中世都市の再建」ではなく、「近代都市への作り替え」の段階に入っていました。
19世紀後半:帝国ドイツの工業都市「小ベルリン」
鉄道と産業化(1850年代以降)
1851年、ベルリン直通の鉄道が開通します。
これ以後、グダニスク、ポズナン、ピワなどと鉄路で結ばれ、ビドゴシュチは鉄道結節点となりました。
主な産業は、木材加工、機械・金属、食品工業、化学産業でした。
この時期、都市人口は急増し、都市景観は完全に近代化されました。
都市景観と「小ベルリン(Klein Berlin)」
ビドゴシュチの街は幅の広い大通り、整然と区画された街区、公園・広場を意識した配置といったプロイセン的官僚都市計画に基づいて整備されました。
これは偶然の成長ではなく、国家主導の計画都市であった点が重要です。
街には今も以下の建築様式が層を成して残っています。
■新古典主義・ネオバロック:官庁・公共建築

図4. ネオバロック様式の聖アダルベルト教会
■ネオゴシック:協会・学校

図5. 新古典様式のクヤヴィ=ポモージェ県庁舎
■アールヌーヴォー(ユーゲントシュティール):19世紀末の集合住宅や商業建築(グスタンカ通り周辺が代表例)
これらは当時のベルリンとほぼ同じトレンドであり、「地方都市」ではなく「首都文化圏の都市」であることを示していました。
もちろんベルリンとの人的・文化的往来は活発化します。
その結果、ブロンベルクは「小ベルリン(Klein Berlin)」 と呼ばれるようになったのです。
民族構成と社会:共存と緊張
混住都市としての性格
ブロンベルクの都市人口の多数派はドイツ系(主にプロテスタント)、周辺農村部ではポーランド系(主にカトリック)でした。
ユダヤ系市民も商業・金融で重要な役割を担いました。
19世紀後半には、官庁・教育ではドイツ語優位、教会や家庭ではポーランド語が維持されるといった二重文化構造が成立したのです。
帝国ドイツ下の緊張
1871年、ドイツ帝国が成立し、学校・行政におけるドイツ化政策が強化されます。
同時に、ポーランド人の協同組合、カトリック教会、文化団体を中心とする静かな民族抵抗も進みました。
第一次世界大戦と再ポーランド化(1918–1920)
戦後秩序の変化
1918年、ドイツ帝国が崩壊、ヴェルサイユ条約によりブロンベルク(ビドゴシュチ)は新生したポーランド共和国への編入が決定します。
1920年1月になってポーランド軍が入城し正式に復帰、多くのドイツ系住民は転出しますが、都市のインフラ・建築・制度は、そのまま新生ポーランド国家の都市基盤として引き継がれました。
おわりに
19世紀以降のビドゴシュチは、プロイセン官僚制と産業資本によって再設計された近代都市でした。
その成果をポーランド国家が継承することで、国境都市から国民国家の中枢都市へと変貌したのです。
さて、今回のブログはここまでです。次回は、両大戦間期のポーランドの都市としての再編、第二次大戦の占領、社会主義期と現在への連続性について話を進めていきたいと思います。
注1 ティルジット条約:1807年7月にナポレオン戦争のさなかで結ばれた重要な講和条約。この条約によりナポレオンはヨーロッパ大陸における覇権をほぼ確立します。条約は主に、フランスとロシア帝国、プロイセン王国の間で締結、プロイセンへの厳しい条件が課されました。この条約で、プロイセンの旧ポーランド領にワルシャワ公国が建設され、ビドゴシュチはワルシャワ公国の一部となります。
注2 ウィーン会議:1814年~1815年、フランス革命とナポレオン戦争で崩壊した国境と秩序を建て直し、もう一度大戦争が起きないような国際秩序を作ることを目的として開催。
注3 11月蜂起:ロシア支配下にあったポーランド立憲王国におこった大規模な武装反乱。同国の王を兼ねるロシア皇帝による憲法無視と抑圧に対し、若き将校の反乱をきっかけに独立を求める国民的蜂起へと発展しました。蜂起の発生とその敗北は若きショパンが祖国ポーランドに戻る道を完全に閉ざされるきっかけとなったことで知られます。
<参照>
・Vintage: Historic B&W photos of Bromberg (Bydgoszcz), Germany (1890s) ,MONOVISIONS Black & White Photography Magazine,https://monovisions.com/bromberg-bydgoszcz-germany-1890s-vintage-historic-bw-photos/
・visitBydgoszcz https://visitbydgoszcz.pl/en/explore/what-to-see
・ヴィドゴシュチュ,クヤヴィ=ポモージェ県,ZenTech https://www.travel-zentech.jp/world/map/Poland/Bydgoszcz.htm
・Bydgoszcz,Poland,Britannica https://www.britannica.com/place/Bydgoszcz
・https://www.poland.travel/ja
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


