01.22
竹鶴政孝の軌跡をたどるジャパニーズ・ウイスキー誕生の旅(その5)、そしていよいよ余市の地へ!幻となった江別蒸留所とは?
シリーズの5回目、いよいよシリーズの最終回です。
竹鶴政孝は山崎蒸留所の所長の職を辞し、余市の地へと向かうことになります。
それでは、なぜ北海道余市に蒸留所を建設することになったのでしょうか。
最終回は、余市蒸留所建設までを追って見たいと思います。
諦めきれなかった北海道での蒸留所建設
さて、山崎蒸留所で原酒の蒸留を始めた竹鶴は、理想のウイスキーを目指し5年の熟成を待ちます。
ところが、大正から昭和初期にかけての不況など、山崎蒸留所、寿屋(サントリーの前身)を取り巻く周辺の情勢はそれを許してくれませんでした。
熟成4年が経過した昭和4年4月、日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」が発売されます。が、周囲の期待に反して、売れ行きは伸びませんでした。
サントリー白札復刻ラベル ウィキペディア サントリーホワイトより
高価なうえに、独特のスモークフレーバーが焦げ臭く、ウイスキーを飲みなれていない日本人に受け入れられなかったようです。
そして、竹鶴はやはり気候が最も合っている北海道でなら、もっと良いウイスキーが作れるはずとのウイスキーへの思いが募ったのでしょう。
サントリー白札の発売される2年前の昭和2年には北海道の江別の調査を行っています。
建設地の第一候補は江別だった!?
なぜ、余市ではなく江別の調査を行ったのか。
初めから余市が念頭というわけではなかったようです。
竹鶴の兄が北海道内で石炭事業を手がけていた「北海道炭礦汽船」に勤め夕張に住んでいたこと、札幌という人口の急増している北海道の中心都市に近く、石狩川河口近辺ではピート(泥炭)を多く産するという願ってもない条件など、建設候補地の選定に有利に働いたのではないでしょうか。
実際、石狩川の河口近く、現在の石狩市生振(おやふる)の泥炭は良質であり、ニッカ余市工場でも原料麦芽の乾燥用、燻蒸用として使われていたそうです。
ところが江別を流れる石狩川は、広大で平坦な石狩平野に入って大きく蛇行するその特徴から、頻繁に洪水を繰り返す大河でもありました。
余市町と江別、江別はピートの産地、生振に近く、一大消費地となりうる札幌市にも近かったが、石狩川の氾濫原に位置していた。 地図は国土地理院電子地図Web
切り出されたピート[泥炭](ウィキペディア 泥炭より)
一方、余市町からも地元で酒造を営む但馬八十次さんら、有力者からの働きかけが盛んだったようです。
余市町ではもともと明治時代から酒造業が盛んで、明治42年には町内の酒造業者が集まり余市酒造株式会社が創立されています。
りんご栽培も盛んで、地元で生産されるりんごを使ったサイダーの製造にもチャレンジしていました。
このように、林檎ジュースやお酒の製造は、余市の地場産業となっていたと言えるでしょう。
ところが、北海道内各地でのりんご生産が活発になり、朝鮮りんごの進出もあってりんごの生産者は次第に疲弊していきます。
そんな中、余市町は町を挙げて大日本果汁(のちのニッカ)の誘致に動いたのです。
竹鶴は候補だった江別をあきらめ、気持ちは余市へと移って行ったようです。
独立、そして余市へ
その頃、掛け持ちで就任したビール工場の売れ行きも芳しくなく、竹鶴が知らないうちにビール工場売却の話が進んでいたのは、サントリーを辞去するきっかけになったのではとも言われています。
ただ、噂を否定するかのように竹鶴は「ウイスキーと私」の中で、「(寿屋の社長の)鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである」とつづりました。
昭和8年、寿屋退社の前年、竹鶴は候補地の江別、そして余市を視察しています。
昭和9年、独立した竹鶴は、当時の笠島余市町長と同町の実業家、但馬八十次さんの案内で工場建設地を余市に決定することになります。
工場の建設地は但馬八十次さんの土地、そして後にリタハウスとして知られる研究所は、但馬八十次さんの住宅でした。
リタハウス、撮影:筆者
「ウイスキーと私」には、「北海道余市にためらうことなく決めた」とあります。
いよいよ余市に居を移したわけですが、一番転居を喜んだのは妻のリタでした。
「ウイスキーと私」には、特に朝、夕の感じがそっくりで、妻のリタは「山にかかる靄を見ているうちに、故郷に帰ったような気になったらしい」と書かれています。
<参照>
・竹鶴政孝著,ウイスキーと私,NHK出版,2014年
・凜として,ニッカウヰスキーストーリー,https://www.nikka.com/story/
・竹鶴政孝、幻の江別蒸溜所計画〜理想のウイスキー、夢の続き(上)
・余市町でおこったこんな話「その180 大日本果汁の時代」,北海道余市町
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』