2022
10.16

竹鶴政孝の軌跡をたどるジャパニーズ・ウイスキー誕生の旅(その2)~実習のため下宿した街ロセス、リタと出逢ったカーキンティロッホ~

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今回は、前回紹介しそびれてしまったロングモーン蒸留所に通うため下宿した街ロセス、そしてリタと出逢ったカーキンティロッホの街を、竹鶴政孝の足跡をたどりながら紹介していきたいと思います。

実習の起点となった小さな街ロセス

ロングモーン蒸留所で実習していた竹鶴政孝は、近くの街、ロセス(Rothes)に下宿していました。ロセスはエルギンの南およそ16km、スペイ川沿いに位置する小さな街です。人口は2020年6月30日現在の推計で人口1180人です。

ロセスの街

ロセスの街は、西暦600年頃には集落があったとされ、1200年頃に建てられたロセス城跡地には、巨大な外壁の断片が残っています。現在の街並みは聖アンデレの斜め十字(×型の十字)を模して計画されたものです。

竹鶴政孝が下宿していた当時、周辺の蒸留所に通う労働者たちのベッドタウンでもあったようです。

ロセス城跡に残る城壁

竹鶴政孝は、ロセスの街なかにあるグレングラント蒸留所やグレンスペイ蒸留所、西外れのグレンロセス蒸留所にも良く顔を出し、従業員同様の扱いをされるほど仲良くなったそうです。

グレングラント蒸留所

グレンロセス蒸留所

リタとの出逢いとカーキンティロッホ

さて、ウイスキーの仕込みや蒸留は夏場が休みとなります。この間、竹鶴政孝はグラスゴーに戻りグラスゴー大学に通ったり、フランスに渡ってボルドーでワインを学ぶなどの勉強を重ねていました。

そして1919年の6月、大学で挨拶を交わす程度の間柄であったエラから、グラスゴー近郊の街カーキンティロッホ(Kirkintilloch)の自宅でのハイティーへの招待を受けるのです。エラの父親はグラスゴー大学出身の医者で、大の親日家だったのです。エラの姉は、そう、ジェシー・リタ・カウン、後の竹鶴政孝の妻となる人でした。

カーキンティロッホの街

カーキンティロッホはグラスゴーの北東およそ13kmに位置する2万1770人(2020年6月30日推計)の街です。古くはローマ軍の砦であり、2世紀の半ば、ローマ帝国の最北端を示すアントニヌスの壁が街の中心部を通過していました。

Antonine.Wall.Roman.forts

  アントニヌスの壁と砦(ウィキペディア(英語版)、Kirkintillochより)

カーキンティロッホは、スコットランドにおける産業革命の遠因の一つであり、早くから繊維産業が盛んになりました。その後の運河や鉄道の開通により、重要な輸送拠点、内陸港、鉄・石炭・ニッケル・小型船舶の生産拠点としてさらに発展したのです。

ところで、リタの出身地であるこの街は、1923年から1967年にかけて公共の場でのアルコール販売が禁止されてしまいます。アルコールが住民に悪影響を与えるとの認識によるものです。竹鶴政孝とリタが日本に旅立って2年がたっていました。

次回、竹鶴政孝とリタが結婚、キャンベルタウンの街へ、そしていよいよ日本に帰国します。

注 ハイティー:もともとはスコットランドや北西イングランドの農民や労働者の生活習慣だった夕方から夜にかけて行われる食事を伴うお茶会。

<参考>

・竹鶴政孝著,ウイスキーと私,NHK出版,2014年

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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