2021
01.31

カルカッタからコルカタへ、その地名は、ベンガル人の信仰厚いカーリー女神から。その繁栄と苦難、そして復活へ!

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インドの大都市コルカタは、ガンジス川の支流であるフーグリ川左岸の自然堤防上に広がる街です。2001年に現在のベンガル語の名称に変更するまでは、カルカッタとしてその名を知られていました。

コルカタは、西にフーグリ川、東に湿地帯が広がっているため、東西に広がることができず、南北に市街地が形成され、その都市圏も南北に広がっていっています。

周辺の衛星都市を含めた都市圏人口は、2020年の推計値で1756万人に達し、インドでデリー、ムンバイに次いで第3位、世界でも第14位の人口を誇る市街地を形成しています。

コルカタは、イギリス領インド時代にその首都となり、繁栄を謳歌しましたが、その時代には、現在では宗教的な対立から隣国となってしまったバングラデシュを含めたベンガル地方の中心都市でもあったのです。

そして、インドの国歌、およびバングラデシュの国歌となった詩を作り、ノーベル文学賞を受賞したことでも知られる詩人タゴールを生んだ街でもあります。

それでは、コルカタの歴史を見ていきましょう。

コルカタの歴史

この地に集落が築かれたのは1495年、当時、この地にはカーリカタ(Kalikata)と呼ばれる漁村があったそうです。この漁村の名前は、「カーリーの沐浴場」を意味するそうです。

カーリーを知っていますか。

青黒い顔をしたインドの女神ですよね。

ヒンドゥー教の一派、シャクティ派の聖典とされる「デーヴィーマーハートミャ」によると、戦いに勝利したカーリーが踊り始めると、その激しさに大地が砕けそうになり、夫であるシヴァ神が足元に横たわって、衝撃を弱めたとか。

その際に、シヴァ神のお腹を踏みつけてしまい長い舌をぺろりと出した場面が、多くの絵やレリーフのモチーフとなっているそうです。

ベンガル地方では、カーリーへの信仰が厚いそうで、カーリカタのような名前が地名にあっても当然と言えます。ただし、カーリカタはイギリス人によってカルカッタと名前を変え、ベンガル語のコルカタへと変化していくわけですが。

さて、1690年になって、イギリス東インド会社の商人ジョブ・チャーノック(Job Charnock)によって、この地に商館が開設されると、1698年にはカーリカタおよびその周辺のスターナティー(Sutanuti)、ゴーヴィンドプル(Gobindapur)の3つの村(現在のコリカタの範囲)の徴税権をこの地域のザミーンダール(zamindar:土地所有者、支配者)から購入し、ウィリアム要塞の建設が始まります。

このときはじめて、コルカタが合法的にイギリスの支配下に置かれたのでした。

ウィリアム要塞(Fort William)

一方、コルカタの北方およそ30kmのシャンデルナゴル(Chandannagar)にはフランス東インド会社の商館があり、フランス領インドの経済的中心として栄えていましたが、イギリス東インド会社軍がベンガル太守によって占領されていたコルカタを1757年に奪回するとともに、このフランス領も占領してしまいます。その後、イギリス東インド会社はフランスをほぼ完全にインドから駆逐し、ベンガルの徴税権をも確保します。

1773年に成立したインド規制法により、新設されたベンガル総督が東インド会社のすべての土地を運営することになったため、コルカタはイギリス領インドすべての政治的中心となりました。

1858年、東インド会社の統治地域はすべてイギリスの直轄植民地となり、1877年にイギリス領インド帝国(インド皇帝はイギリス国王が兼務する)となって以降もカルカッタは首都の地位を堅持します。

インド行政の中心となったカルカッタでは、ベンガル文化復興の流れが生まれ、ベンガル・ルネッサンスとも呼ばれる文化の黄金期を迎えます。

この時期コルカタは、アジアで初めてノーベル文学賞を受賞したタゴールなどの多くの文化人を輩出し、ヴィクトリア記念堂などの多くの建物が建設されます。

ヴィクトリア記念堂

やがて、こうした文化の興隆が民族運動と結びつき、反英運動が盛んになります。

そして1911年、反英運動を嫌ったイギリス政府は、首都をデリーへと移転することになるのです。

第二次世界大戦の戦乱の後、1946年8月16日、コルカタではイスラム教徒とヒンドゥー教徒による武力衝突が起きます。このときの死傷者は数千人にのぼるといいます。大きな苦難の始まりでした。

この事件以降、コルカタで共存していた両教徒は、明確な住み分けを行うようになってしまいました。

1947年、インド独立が成就したのですが、このときイスラム教徒の多い東パキスタン(現在のバングラデシュ)から、600万人ともいわれる難民がコルカタ郊外へと移り住むことになります。

また、東パキスタンが独立によって失われたことは、コルカタにとって経済的に大きな打撃でした。

難民の増大や社会不安の増加、社会主義政党による州政権などが影響し、コルカタの企業は他都市へと移転し、経済の地盤沈下が加速しました。

2000年代に入ってやっと、インドのITブームの影響もあり、コルカタの経済は停滞から抜けつつあるようです。

<参照>

・Demographia, 2020.04, Demographia World Urban Areas 16th Annual Edition, http://www.demographia.com/

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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