01.19
スコット人は強かった!スコットランド、地名の由来と英雄ウィリアム・ウォレスが独立の機運高め、人口増!
日本でいうイギリスまたは英国の正式名称は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国です。
そして、United Kingdom(連合王国)ともよばれ、UKと略称されています。
つまり、この国は国々や地域などが連合した王国と考えられるわけです。
さて、イギリスを構成しているのは、4つのカントリー(国(主権国家ではない))です。この中の一つにスコットランドがあります。
スコットランドの概要
スコットランドはイギリスの北端の地域で、現在の人口は546万人、面積は7万9千km2、ちょうど日本でいうと北海道と同じような人口と面積を有する地域です。
緯度は、地域の南端で北緯54.6度、グレートブリテン島の北端で北緯58.5度、最北端の島、シェトランド諸島のアンスト島では60.8度ですから、北海道(最北端の稚内でも北緯45.5度)よりもかなり北に位置します。ちなみにサハリンの最北端でも北緯54.4度で、スコットランドはサハリンよりも北にあると言えば、イメージしやすいでしょうか。
このような北の地域にありながら、西側を流れるメキシコ湾流から変わった北大西洋海流とその海流の上空の暖かい空気が偏西風によってスコットランドに吹き寄せられ、夏は北海道、冬は北関東と同じような気温になると言いますから、穏やかな過ごしやすい気候と言えます。
スコットランドの名産であるウイスキーが、日本でも発展する理由が、ここにあるのでしょう。
それでは、スコットランドの歴史、人口の変遷についてみていきましょう。
スコットランドの歴史
古くからハイランド地方を支配していた民族にピクト人がいます。ピクト人はケルト語を話していたことや何人かの王の名前は判明していますが、実態がよく分かっておらず、謎の民族と呼ばれています。
紀元1世紀になって、ローマ帝国がブリテン島に攻め込みますが、その支配は現在のスコットランド方面までは及ばず、むしろピクト人はたびたびブリタニア(ブリテン島南部のローマ帝国支配地域)に攻め込みます。ブリタニアは、これを恐れ長城を築くほどでした。
その後、ローマの衰退とともにアイルランドから渡ってきたスコット人が、先住のピクト人やブリトン人、アングル人を制圧し、9世紀までにはその優位性を固め、この地はスコットランドと呼ばれるようになります。
13世紀の終わりになって、大ブリテン島の統一を図るイングランド王エドワード1世がスコットランドに侵攻します。スコットランドではウィリアム・ウォレスが指導者となり激しく抵抗し、イングランド軍を破るなどの活躍を見せますが、1305年にエドワード1世によって捕らえられ、処刑されてしまいます。その後、スコットランド王国は反撃に転じ、1314年に名門貴族であったロバート・ブルースがエドワード2世率いるイングランド軍を破り、1323年には正式にローマ教皇からスコットランド国王ロバート1世として認められるのです。
この後、スコットランド王国は1328年から1603年まで、独立した王国として存在しました。
スコットランドとイングランドは1328年以降も戦争状態が続いていましたが、イングランドのヘンリ7世はスコットランドとの和平のため、娘のマーガレットをスコットランド国王ジェームズ4世の妃にします。この二人の孫にあたるのが、ドイツの作家シラーの史劇でも知られるメアリー・ステュアート、そしてその子供のジェームズ6世が1603年にイングランド王も継承することになり、イングランドのステュアート朝が始まります。
なお、このときのイングランド国王としての名はジェームズ1世でした。
その後もイングランドとは同君連合注の関係が続きますが、1707年になってイングランドと合同してグレートブリテン連合王国となったのです。
ところで、先に紹介したウィリアム・ウォレスですが、彼が主人公の映画「ブレイブハート」が1995年に公開されています。この映画が契機となってスコットランドのナショナリズムが刺激され、1990年後半以降のスコットランド独立運動の盛り上がりに影響を与えたと言われています。
スコットランドの人口変遷
スコットランドの人口センサスは、1861年が最初のものになりますが、イングランド、ウェールズとは別に行われていました。
また、スコットランドの「National Records of Scotland(NRS)」によって、1855年から2019年までの年央人口推計値が公開されています。
下表に5年ごとの推計値を抜粋したものを、また下図には1年ごとの値をグラフ化したものを示しました。
年 | 総人口 | 男性 | 女性 |
1855年 | 2,978,065人 | 1,416,600人 | 1,561,500人 |
1860年 | 3,054,738人 | 1,447,600人 | 1,607,100人 |
1865年 | 3,185,439人 | 1,513,100人 | 1,672,300人 |
1870年 | 3,336,712人 | 1,591,100人 | 1,745,600人 |
1875年 | 3,514,744人 | 1,683,800人 | 1,830,900人 |
1880年 | 3,705,994人 | 1,784,000人 | 1,922,000人 |
1885年 | 3,856,207人 | 1,859,000人 | 1,997,200人 |
1890年 | 4,003,131人 | 1,931,600人 | 2,071,500人 |
1895年 | 4,209,645人 | 2,037,800人 | 2,171,900人 |
1900年 | 4,436,958人 | 2,155,600人 | 2,281,400人 |
1905年 | 4,595,636人 | 2,230,200人 | 2,362,500人 |
1910年 | 4,738,611人 | 2,298,400人 | 2,440,200人 |
1915年 | 4,771,798人 | 2,308,119人 | 2,463,679人 |
1920年 | 4,866,866人 | 2,338,458人 | 2,528,408人 |
1925年 | 4,867,129人 | 2,334,324人 | 2,532,805人 |
1930年 | 4,828,004人 | 2,315,877人 | 2,512,127人 |
1935年 | 4,952,510人 | 2,385,011人 | 2,567,499人 |
1940年 | 4,841,241人 | 2,220,142人 | 2,621,099人 |
1945年 | 4,673,931人 | 2,057,541人 | 2,616,390人 |
1950年 | 5,114,513人 | 2,454,317人 | 2,660,196人 |
1955年 | 5,111,338人 | 2,441,189人 | 2,670,149人 |
1960年 | 5,177,658人 | 2,481,689人 | 2,695,969人 |
1965年 | 5,209,900人 | 2,501,197人 | 2,708,703人 |
1970年 | 5,213,700人 | 2,506,675人 | 2,707,025人 |
1975年 | 5,232,400人 | 2,516,261人 | 2,716,139人 |
1980年 | 5,193,900人 | 2,500,863人 | 2,693,037人 |
1985年 | 5,127,890人 | 2,469,514人 | 2,658,376人 |
1990年 | 5,081,270人 | 2,443,865人 | 2,637,405人 |
1995年 | 5,103,690人 | 2,453,353人 | 2,650,337人 |
2000年 | 5,062,940人 | 2,431,926人 | 2,631,014人 |
2005年 | 5,110,200人 | 2,461,274人 | 2,648,926人 |
2010年 | 5,262,200人 | 2,548,218人 | 2,713,982人 |
2015年 | 5,373,000人 | 2,610,469人 | 2,762,531人 |
2019年 | 5,463,300人 | 2,663,003人 | 2,800,297人 |
1940年代の男性の人口減少は第二次世界大戦の影響を受けたものです。
1900年代のはじめころから、人口はほぼ横ばいでしたが、2000年代の初めになって再び増加に転じています。
ここにも独立運動の影響が出ているのかもしれません。
注:同君連合 複数の君主国の君主が同一人物である状態・体制のこと。
<参照>
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・スコットランド,世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-058.html
・青柳真知子編,国勢調査の文化人類学,古今書院
・National Records of Scotland https://www.nrscotland.gov.uk/