2021
01.11

南米のパリの発展の歴史!誤解がブエノスアイレスを生み、移民が育てた!?

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南アメリカ大陸、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは、ラプラタ川の河口の南側に市域の広がる大都市です。

また、ブエノスアイレスは、広大な草原であるパンパを後背地として控え、早くから発展し、20世紀後半にブラジルのサンパウロに追い越されるまで南米最大の都市でした。

それでは、ブエノスアイレスの建設から発展、そして人口の推移をみていきましょう。

ブエノスアイレスの建設

1516年、スペインのコンキスタドール注1、フアン・ディアス・デ・ソリス注2が初めてラプラタ川の河口部、現在のウルグアイ南端の街、ピンタ・デル・エステの近くに上陸しました。

ディアス・デ・ソリスは、原住民(インディオ)が銀の装飾具を身に着けていたことから、そこに大量の銀があると誤解し、川の名前をラプラタ(銀)川と名付けました。この誤解が、ブエノスアイレス市の建設につながったのです。

1536年2月2日、スペインの探検家ペドロ・デ・メンドーサ注3の植民団が銀を求め、軍事拠点として現在の市内サン・テルモ地区にあたる場所にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市(Ciudad de Nuestra Señora Santa María del Buen Ayre、スペイン語、直訳では「良き風(順風)の我々の聖母マリア市」)を建設します。

しかし、その後の先住民による攻撃やこれに伴う飢餓のために、1541年には一旦街を放棄せざるを得なくなります。生き残った入植者たちは、さらに内陸のアスンシオン(現在のパラグアイの首都)まで移動し、そこに街を建設したのです。

一方、ボリビアのポトシで銀鉱山が発見されると、そこで産出された銀をスペインに運ぶため、ポトシから南東方向に海に向かって伸びるルートが整備されていきました。そして1580年、アスンシオンのフアン・デ・ガライ注4は、このルートの海への玄関口としてラプラタ川の河口に近い現在のブエノスアイレスに港を建設したのです。

ファン・デ・ガライはブエノスアイレスの2度目の建設者として知られています。

ブエノスアイレスの発展と南米のパリの名声

ブエノスアイレスの後背地には、広大な草原地帯であるパンパが広がっています。

16世紀に、パンパに放牧された家畜が大繁殖すると、家畜から採れる皮革や肉、また家畜そのものも農耕や軍事へと利用され、ラプラタ地域最大の商品となり、ブエノスアイレスの発展を支えました。

1776年になって、ペルー副王領が分離し、リオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となり、正式に開港されます。

その後、1810年5月25日の5月革命を経、1816年にはリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言され、ブエノスアイレスは首都に定められます。

1825年、国名をアルゼンチンに改名し、ブエノスアイレスをブエノスアイレス州から切り離した連邦直轄の首都に定める憲法を公布したものの、この憲法は連邦派の反対等により流れてしまいます。

1862年になって、ブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言されました。

ブエノスアイレスが正式な首都となったのは、ブエノスアイレス州の反対を押し切ってブエノスアイレス市が分離、連邦直轄区となった1880年を待たねばなりませんでした。

さて、南米のパリと呼ばれる美しい町並みは、いつごろから整っていったのでしょうか。

アルゼンチンの第2代大統領、ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント(Domingo Faustino Sarmiento)(就任期間1868年~1874年)は、欧州化、文明化政策を実施し、多くの移民がイタリアやスペインなどから渡来します。

1871年から1913年にかけてのヨーロッパ人の移民は317万人にも上りました。この頃、これらの移民たちによって、南米のパリと呼ばれるブエノスアイレスのヨーロッパ風の街並みが完成されたのです。

また、イタリア人移民の多かった南部のラ・ボカ地区では、アルゼンチン・タンゴが育ちました。

ブエノスアイレスの人口

独立当時(1816年)、ブエノスアイレスはおよそ人口5万人と言われています。その後、どのように人口が変化してきたのでしょうか。人口で追い越されることになるブラジルのサンパウロ、リオデジャネイロとの比較で、1950年以降の都市圏人口の変遷を見てみましょう。

南米主要都市の都市圏人口の変化(推計値)

ブエノスアイレス サンパウロ リオデジャネイロ
1950年 5,166,140人 2,334,038人 3,026,195人
1955年 5,910,271人 3,043,828人 3,687,344人
1960年 6,761,837人 3,969,759人 4,493,182人
1965年 7,548,511人 5,494,150人 5,522,674人
1970年 8,416,170人 7,620,490人 6,790,519人
1975年 9,143,219人 9,614,016人 7,733,429人
1980年 9,919,781人 12,089,454人 8,783,870人
1985年 10,523,442人 13,394,815人 9,241,709人
1990年 11,147,566人 14,775,840人 9,697,487人
1995年 11,806,407人 15,913,473人 10,431,518人
2000年 12,503,871人 17,014,078人 11,306,768人
2005年 13,329,540人 18,288,134人 11,831,807人
2010年 14,245,871人 19,659,808人 12,373,884人
2015年 14,705,533人 20,883,046人 12,940,796人

ブエノスアイレスは、1970年までは南米最大の都市でしたが、1975年にはその座をブラジルのサンパウロに譲りました。

2015年には、その差は600万人に広がっています。

注1:スペイン語でConquistador、15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家。

注2:Juan Díaz de Solís(1470年~1516年)、スペインのコンキスタドール、ポルトガルに生まれ、スペインに逃亡する1504年まで航海士としての訓練を受ける。1506年ユカタン半島、1508年にブラジルを探検。1516年ラプラタ川河口に到達するも先住民との争いで戦死。

注3:Pedro de Mendoza(1487年~1537年)、スペインの貴族の家系に生まれ、自費で南アメリカを探検し、植民地を設立することを申し出る。1534年、大規模船団を率いて出港し、1536年にブエノスアイレスを設立。

注4:Juan de Garay(1528年~1583年)、スペインのコンキスタドール、ボリビアの都市サンタ・クルスデ・ラ・シエラの建設に携わったのち、アスンシオンに移る。1573年にはパラナ川流域の遠征に参加し、アルゼンチンの多くの都市の建設者となる。

<参照>

・calendario histórico, Buenos Aires Ciudad, https://web.archive.org/web/20121024201506/http://www.buenosaires.gov.ar/areas/ciudad/historico/calendario/destacado.php?menu_id=23203&ide=44

・真鍋周三,植民地時代前半期のポトシ銀山をめぐる社会経済史研究― ポトシ市場経済圏の形成 ―(後編 1)

・World Urbanization Prospects 2018,United Nations  https://population.un.org/wup/Download/

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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