2021
06.13
ファタヒラ広場

大都市ジャカルタ、その意味は「偉大なる勝利」!ポルトガルを駆逐したその名の命名者ファタヒラは、国民的英雄として今も広場の名に残る!

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インドネシアの首都、ジャカルタはジャワ島の北西部、ジャワ海に面した町で、古くから港町として発展してきました。

ジャカルタ

都市圏人口35,362千人(2021年推計)は、東京に次いで世界第2位の人口規模となっています。

今回は、そんなジャカルタの名前の由来とその命名までの歴史について見ていきたいと思います。

ジャカルタ命名までの歴史

ジャカルタは、16世紀初めまでスンダクラパ(スンダ語で「スンダのココナッツ」の意)と呼ばれ、西ジャワのパジャジャラン王国の港町として発展した町です。

スンダクラパの名は、現在も港の名として残されています。

スンダクラパ港(Pelabuhan Sunda Kelapa)

なお、パジャジャラン王国はジャワ島西部に存在したヒンドゥー教国家ですが、明確な所在地は現在も不明とされています。

スンダクラパの面するインドネシアの海域は、当時の中国の王朝明注1の冊封体制注2下に入っており、朝貢貿易注3や中継貿易の港町として発展したのです。

1522年になって、この地にポルトガル人が到達し、港の権限を持つスンダ民族の王国との間で政治・経済協定を結びました。

ヒンドゥーの王国の港、スンダクラパでは、このころイスラム教の王国ドゥマクの脅威にさらされており、軍事的支援と引き換えに、ポルトガル人の香辛料の貿易の自由を認めたのです。

このときの協定は、ルソ・スンダパドロン注4として残り、ルソ・スンダのスンダクラパ条約として知られているそうです。

Padrao sunda kelapa

スンダクラパのパドロン(ウィキペディア Luso-Sundanese padrãoより)

1527年になって、ドゥマク王国の司令官であったファタヒラは、この地からポルトガル人を駆逐し、町の名をジャヤカルタに改めます。

Stamps of Indonesia, 001-08

2008年発行のインドネシアの切手に描かれたファタヒラ、ウィキペディア Fatahillahより

ファタヒラはインドネシアの国民的英雄であり、広場などにその名が使われています。

ファタヒラ広場

ジャヤカルタ(「偉大なる勝利」の意)は、オランダの統治時代、バタビアに名称が変更された後、日本の統治時代にジャカルタとなりますが、ジャヤカルタ(サンスクリット語)、ジャカルタ(インドネシア語)ともにその意味するところは同じです。

また、ジャカルタには、このように歴史的な地名、記念碑的な名称が多く見られます。

ウェブで検索しても、なかなか見つからない人名や古王国の名前が、Googleマップで検索すると、地名や建物、広場などの名称として、すぐに見つかります。

ジャカルタを訪れる際には、まず歴史を勉強して、歴史的な名称がどこかに残っていないか、散策してみるのも面白いかもしれませんね。

次回は、ジャヤカルタ命名後の歴史について、見ていきたいと思います。

お楽しみに!

注1 明:中国歴代王朝の一つ。1368年~1644年。

注2 冊封体制:中国の歴代王朝が周辺諸国に対してとった外交体制、およびそれによる国際秩序。冊封を受けた国の君主は、中国皇帝と君臣関係を結ぶが、これらの国の君主は、冊封された国において自治、自立を認められており、中国の領土となったという意味ではない。

注3 朝貢貿易:中国王朝との冊封体制下の中で行われた、中国王朝に対する周辺諸国の貢物の献上と、これに対し、献上国の君主であることを認め、恩賜を与えるという形態をとる一種の貿易。恩賜は貢物の数倍~数十倍となることもあった。

注4 パドロン:記録の残された石柱のこと。15世紀から16世紀にかけてポルトガルの海洋探検家たちが、重要な上陸地を記録し、優位性や所有権を確立するために残した。なお、初期のパドロンは木製の柱や十字架であり、設置される場所が熱帯気候であったため劣化が早かった。

<参照>

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・冊封体制とは,リベラルアーツガイド https://liberal-arts-guide.com/tributary-system-of-china/

・Demographia, 2021.05, Demographia World Urban Areas 17th Annual Edition, http://www.demographia.com/

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