2020
10.12

日本三名園のひとつ、後楽園の歴史から岡山市が見えてくる?

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岡山市は、岡山県の県庁所在地であり、人口70万人を超える政令指定都市でもあります。

岡山市と言えば、きびだんご、桃やブドウなどの果物、日本三名園の一つ、後楽園などが有名です。

桃やブドウなどの果物は、「白桃」や「シャインマスカット」など、ブランド力の高い品目の栽培が盛んです。

また、きびだんごや桃で想像されるように、桃太郎の昔話のゆかりの地ともされています。

岡山駅の桃太郎像

さて、ここでは岡山市の歴史を紐解くのに欠かせない後楽園の歴史についてまとめてみました。

後楽園の歴史

後楽園は、金沢市の兼六園、水戸市の偕楽園とともに日本三名園の一つとされ、国の特別名勝に指定されている庭園です。

後楽園に接する旭川を隔てて南に位置する岡山城は1597年(慶長2年)に、当時の岡山藩主宇喜多秀家が築城したものですが、旭川を城や城下町の防御のための堀の代わりとするため、その流路を不自然に変えました。このため、岡山城下はたびたび洪水に悩ませられることになります。

池田氏の治政となり、岡山藩の2代藩主池田綱政は、初代藩主で父の光政に見出された津田永忠を登用し、放水路の開削などの抜本的な洪水対策を行って藩の財政を再建させます。

1686年(貞享3年)のころ、放水路である百間川が完成すると、藩の財政に余裕が生じてきたため、綱政は津田永忠に命じて城の北側の旭川沿いの低湿地と、宇喜多秀家によって集められた小姓たちが居住していた「小性町」に庭園を作るよう命じます。

工事は1687年(貞享4年)12月に着工し、翌1688年(元禄元年)には本格的な土木工事が始まります。

次々と園内の建造物や植栽が完成していきましたが、藩主の池田綱政は岡山城在城の折に頻繁に庭園に通います。

1691年(元禄4年)、完成したばかりの延養亭で綱政は、津田永忠らの工事に携わった家臣のために、その労をねぎらい宴を催しました。

これらのことから、綱政はその出来栄えに満足していたようです。

その後も庭園の拡張や施設の建築が行われ、1700年(元禄13年)に一応の完成をみることになります。

庭園には定められた名称があったわけではなく、工事が始まった当初には「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれていましたが、1695年(元禄8年)頃には城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるようになりました。

当初の園内は、綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていましたが、1771年(明和8年)の藩の財政難の折に、当時の藩主池田治政が経費節減のため芝生を植えさせ、現在のような景観へと変化していくことになります。

また、幕府の厳しい監視から、他藩の藩主等が来訪した際には御後園は用いられず、幕府の力が衰えた幕末になって客人らをもてなすようになったそうです。

1869年(明治2年)の版籍奉還によって御後園は岡山城とともに一時明治新政府の手に渡りましたが、1870年(明治3年)11月には再び岡山藩の所有となります。

1871年(明治4年)2月より、当時藩知事に就任していた池田章政が日を限定して一般に開放しましたが、この際、名称を「後楽園」に改めます。

後楽園の名は中国の宋の范仲淹の著した「岳陽楼記」にある「先憂後楽」からとったそうです。

その後、後楽園は岡山県に譲渡され、1884年(明治17年)には広く一般に公開されるようになり、「日本三名園」の一つとして多くの人々でにぎわいました。

ところが、太平洋戦争がはじまると、食糧事情の悪化に伴い、園内の芝生が畑に転換され、1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲では、延養亭などの江戸時代から残る多くの建造物が焼失してしまいます。

終戦後は進駐軍の宿舎として使用されましたが、撤退後再び岡山県の所有となり、園内を復元、1954年(昭和29年)6月1日から有料で一般に公開されるようになりました。園内のすべての建造物の復元が完了したのは1967年(昭和42年)でした。

古くからの名声と、明治初期から一般公開により人々に親しまれ続けてきたことが、太平洋戦争という危機から後楽園を復活させたのですね。

後楽園

岡山市の人口

岡山市の人口は、江戸時代中期には知行取りの侍5,300余人、町人3万人強を数えました。

1889年(明治22年)6月1日に市制施行しますが、このときの人口は47,564人です。江戸中期のおよそ1.5倍に増えています。

1920年(大正9年)の最初の国勢調査では総人口94,585人を数え、わずか30年でおよそ2倍に増えました。

この当時の岡山市は、岡山城を中心に北は広瀬町、南方、西は岡山駅の西の駅元町、桑田町、南は桜橋、東は操山の西の麓の国富、及び門田文化町にかけて広がる小さな区域でした。

その後、昭和29年までに周辺の22町村を合併し、昭和30年の国勢調査における人口は235,754人に増加しました。

昭和50年までの21年間には、11市町村を合併し、昭和50年の国勢調査結果では人口513,471人、昭和30年の2倍以上となり、初めて50万人を超えます。

平成の合併では2005年(平成17年)3月22日に御津町、灘崎町と、2007年(平成19年)1月22日には建部町、瀬戸町と合併し、2010年(平成22年)の国勢調査結果では人口709,584人となり、初めて70万人を超えました。

平成27年の国勢調査における、岡山市の人口は719,474人となっています。

<参考>

・政府の総合統計窓口 https://www.e-stat.go.jp/

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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