11.12
日本の人口集中地区(その5)北海道深川市~歴史ある交通の要衝深川、2026年の留萌本線廃止は街にどのような影響をもたらすのか
日本の人口集中地区シリーズ、一級河川石狩川にほどちかく周辺には田園地帯の広がる交通の要衝、深川市の人口集中地区です。
No.5 深川市 人口集中地区
石狩平野の最北部を南西に向かって流れる石狩川中流右岸に位置する街です。郊外では米の生産が盛んで、周囲には田園地帯が広がります。明治31年の鉄道開通と同時に駅前を中心に市街地が形成、その後、留萌線が開業し石炭や海産物の流通拠点となって発展しました。
図1.深川市の位置
※地図で見る統計(統計GIS,政府統計の総合窓口)の地図を加工、ベースの地図は国土地理院ウェブサイト
図2.令和2年国勢調査結果による深川市の人口集中地区
※地図で見る統計(統計GIS,政府統計の総合窓口)の地図を加工、ベースの地図は国土地理院ウェブサイト
ここで少し、深川の街の歴史を話します。
深川市街地は国道12号線から北に外れています。
これは、国道12号線沿いに発達した街ではなく、鉄道の開通、駅舎の開設に伴い発展した街といえるかと思います。
国道12号線の前身は上川道路とよばれ、明治22年に完成した道路です。当時は岩見沢まで道路が通じていたもののそれ以北には原始林が広がっており、北海道の開拓を進め上川地方を開発するため道路の開通が急がれていたと言われます。現在の三笠市市来知(いちきしり)から旭川市(当時は忠別太)までの間を囚人の労働力を利用して完成した道路、いわゆる囚人道路としても知られます。
現在の国道12号線は付け替えによりやや南に移動していますが、当時の上川道路沿いの音江に音江法華駅逓所第ニ美英舎が設置されました。
駅逓とは、幕末から昭和初期の北海道において、旅人の宿泊や運送、郵便の役割を担った施設です。上川道路には第一美瑛舎~第五美瑛舎と名付けられた五つの駅逓がありました。
時代とともに上川方面への交通量が増え、駅逓の周辺には商店や食堂、宿屋などができ、上川道路の駅逓の中でも音江法華駅逓付近は最も賑わったと言います。
図3.旧国道12号線と音江法華駅逓所第二美英舎跡
さて、上川道路が完成した頃、深川本通りと呼ばれる細い道が、雨竜原野の開拓を目的として1891(明治24)年に完成しています。
この道こそ、現在の深川市街の中心を通っている道、道道旭川深川線(北海道道57号)および道道深川雨竜線(北海道道47号)です。
そして明治31年、当時の北海道官設鉄道上川線(現在のJR函館本線)が開通、深川駅が開設されます。その後深川駅を中心に市街地が形成、特に駅前には多くの家が建ちました。
続いて1910(明治43)年、深川と留萌を結ぶ留萌線、1941(昭和16)年、深川と名寄を結ぶ深名線注が開通し、交通の要衝としての役割を深めていったのです。
<深川市人口集中地区の諸元>
人口集中地区名:深川市 人口集中地区
場所:北海道深川市
人口集中地区の人口:9591人 /H27:1万0508人(-917人)
人口集中地区の面積:3.31km2 /H27:3.54km2(-0.23km2)
人口集中地区の人口密度:2897.6人/km2 /H27:2968.4人/km2
人口集中地区の世帯:4724世帯 /H27:5011世帯(-287世帯)
最も近い人口集中地区:北海道滝川市 人口集中地区(直線距離16.1km・国道233号-国道12号(高速道の利用なし)21.7km)
<前回調査(2015(平成27)年)との比較>
面積の平成27年との差は-0.23km2、およそ6.5%縮小、人口は-917人、およそ8.7%減少しました。
深川駅の西側、留萌本線の沿線部分の地区が人口集中地区から外れ、駅の西半分がえぐり取られたようになり、地区の南側と北側が駅の東半分とその東側のわずかな幅でつながっているように見えます。
留萌本線の廃止決定は2022年7月ですが、まるでそれを予兆するかのような人口集中地区の縮小にも見えます。
図4.令和2年と前回調査(平成27年)の人口集中地区の比較
注:深名線 1960年代、沿線の経済の斜陽化に伴い地域人口が流出、バス輸送への転換が決まり1995(平成7)年廃止
<参照>
・政府の総合統計窓口 https://www.e-stat.go.jp/
・開拓のころ,北海道深川市 https://www.city.fukagawa.lg.jp/cms/section/kouhou/ik75k40000000778.html
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』