12.04
竹鶴政孝の軌跡をたどるジャパニーズ・ウイスキー誕生の旅(その4)、日本への帰国と山崎蒸留所建設、名水の里
前回、リタとの結婚、そしてスコットランドでの研修を終えリタを伴い帰国の途につくところまでを書きました。
そして今回はその4、日本に帰国した竹鶴政孝が日本に初めてウイスキー蒸留所を建設するまでを見ていこうと思います。
帰国と山崎蒸留所の建設
大正9(1920)年11月、竹鶴政孝は妻のリタを伴い横浜港へ、
当時、第一次世界大戦後の大恐慌のあおりを受け酒造業界の倒産が相次いでいました。
帰国後、本格ウイスキーの製造計画に早速着手し、務めていた摂津酒造の経営層を説得するも、財政面を理由に役員会で否認、ほんもののウイスキーをつくることしか考えられなかった竹鶴政孝は、1922(大正11)年、同社に辞表を提出します。
数ヶ月の浪人生活ののち、1923(大正12)年、現在のサントリーの前身、寿屋の社長、鳥井信治郎から三度の来訪を受け、同社に籍を移すことを決意します。
このとき、竹鶴政孝は鳥井に対し工場の最適地は北海道であることを提案しています。
しかしながら、鳥井信治郎は消費者に工場を見てもらえる大阪から近いところ、という条件を何としても譲らなかったのです。
竹鶴政孝が寿屋に入社して、初めて取りかかったのがウイスキーの原酒工場の適地の選定でした。
竹鶴政孝は、建設条件に見合う場所を大阪に限らず兵庫県、和歌山県、滋賀県にも足をのばし、探し歩きます。
そして選んだ場所は、京都府との境にほど近い、大阪府三島郡島本村、現在の島本町山崎の地でした。
大阪府と京都府の府境に近い大阪府三島郡島本町と山崎蒸留所
竹鶴政孝の自伝「ウイスキーと私」によると、「川向かいの山の上にある男山八幡のお宮からながめて、最終決定した」といいます。
山崎蒸留所と桂川、宇治川、木津川を挟んで向かいの丘の上に建つ石清水八幡宮(旧称:男山八幡宮)
石清水八幡宮から山崎蒸留所方面を遠望する
日本初のウイスキー蒸留所の誕生は、1924(大正13)年11月11日のことでした。そして、竹鶴政孝は山崎蒸留所の初代所長となったのです。
さて、山崎の地は、古くから水生野(みなせの)と呼ばれる名水の里として知られ、平安時代初期~中期の作の伊勢物語にもその名が出てきます。蒸留所に近い水無瀬(みなせ)神宮では離宮の水(りきゅうのみず)とよばれる名水100選にも選ばれる水が今でも湧き出しています。
そして、その水質は山崎蒸留所建設当時と変わらないと言います。
また山崎は、隣接する京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町とともに、本能寺の変で信長を自刃に追い込んだ明智光秀と、本能寺の変の報を受け備中高松城の攻防戦からいわゆる中国大返しと呼ばれる早さで引き返してきた羽柴秀吉が戦った「山崎の戦い」の戦場でもありました。
<参考>
・竹鶴政孝とリタの結婚100周年を祝うシングルモルトが発売,WHISKY Magazine,http://whiskymag.jp/nikka_brandywood/
・山崎蒸溜所90周年(2)/伊勢物語と山崎,All About,https://allabout.co.jp/gm/gc/408162/
・離宮の水,日本の名水百選,https://www.flair-water.jp/meisui/2177/
・竹鶴政孝著,ウイスキーと私,NHK出版,2014年
・ニッカウヰスキーストーリー,https://www.nikka.com/story/
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)