2021
01.24

鎌倉市、東国支配の拠点から観光都市へ、その変貌を追う!

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2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台になる鎌倉市は、源頼朝がはじめて幕府を開いた地として、みなさんよくご存じかと思います。

そして、現代では首都東京の近郊都市として、癒しの場を提供する町に変貌を遂げているといって良いでしょう。

さて、この鎌倉市は上空から見ると市街地が谷に沿ってのび、その人口集中地区は例えて言うならリアス式海岸のように複雑に広がっています。おそらくは、人口集中地区の境界線の長さは、全国でもトップクラスではないでしょうか。

鎌倉市の衛星写真

鎌倉市の丘陵は凝灰質砂岩層であり、市街地の中央部を流れる滑川流域に大小の浸食谷が発達しています。これはヤツ(谷)と呼ばれ、中世には社寺や武士の居館が多く設けられました。

その代表的なものには扇ガ谷があり、戦国時代にその名を残す扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)氏にもその名をみることができます。

扇ガ谷

源頼朝がこの地を根拠地としたのは、こういった地形が天然の要害とみなされたこともその理由の一つです。

また、このようにヤツ沿いに発達した市街地は、現在の鎌倉に受け継がれているのです。

それでは、鎌倉の歴史と人口の変遷についてみていきましょう。

鎌倉の歴史

鎌倉の名前が、文献に初めて出てくるのは「古事記」の中巻の4の景行天皇の記述においてです。そこには、以下のような文が出てきます。

足鏡別王者、鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別之祖也。

これは、「足鏡別王は、鎌倉の別、小津、石代の別、漁田の別の先祖である」という意味であり、また、別とは皇族の子孫で地方に封ぜられた氏族の姓であることを意味します。

ただし、鎌倉の別については、足利別王の子孫であること以外は、詳しいことは分かっておらず、ただ本居宣長の古事記伝に鎌倉の別が後の鎌倉郡に転じたのではないかとの指摘があるのみです。

鎌倉は古代においては、鎌倉郡の郡衙注1が置かれていた地であり、また豪族の鎌倉氏の本拠地でもありました。

鎌倉氏は、先に記述した鎌倉の別の子孫であったという説もありますが、確かではありません。

平安時代後期の武将である鎌倉権五郎景正は、源義家に従軍し後三年の役注2で勇名を轟かせました。鎌倉氏はその後、鎌倉郡周辺の武士団鎌倉党を形成していきますが、頼朝の挙兵時には源平に二分されるなどし、やがて衰退していきます。

さて、源頼朝が大倉郷に頼朝の邸である大倉御所を置き、侍所を置いて武家政権が形成されたのが1180年(治承4年)、征夷大将軍に任ぜられたのは1192年(建久3年)ですが、鎌倉幕府の成立年については、武家政権成立当時「幕府」と呼んでいたわけではなく、現在では様々な意見が存在するようです。

鎌倉市雪ノ下(旧称大倉)

いずれにしても、この頃から鎌倉は東国支配の重要拠点として、繁栄していきます。

1224年(貞応3年)、北条泰時が執権に就くとともに、鎌倉幕府の政庁は大倉から宇都宮辻子(ずし)に移されます。さらに同じく泰時により1236年(嘉禎2年)若宮大路に移され、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡まで、日本の中心地でした。

宇津宮辻子幕府跡

若宮大路幕府舊蹟碑

その後、室町時代には関東10か国を統治するために鎌倉府がおかれます。依然として、東国支配の重要拠点でありつづけましたが、幕府との対立により数々の騒乱が起き、1455年(享徳4年)第5代鎌倉公方足利成氏が下総国古河(現在の茨城県古河市)に拠点を移し、古河公方を成立させたことにより、鎌倉は衰退していくことになります。

近世になって江戸が中心地となると、鎌倉は江の島の江島神社などへの参拝者の立ち寄り先として観光ルートに含まれるようになります。

1889年(明治22年)に横須賀線が開通しますが、その経由地となったことで観光地としての性格が急激に強くなり、さらに皇族・華族・政財界有力者の別荘地となると、観光産業が急速に発展していきます。

横須賀線の開通が、現在ある鎌倉の繁栄の基礎となったと言っても過言ではないかもしれません。

ところで、鎌倉市と言えば大仏ですが、政庁が若宮大路に移されて間もない1238年(暦仁元年)、大仏堂の建立が始まり、5年後の1243年(寛元元年)に開眼供養が行われたという記述が「吾妻鏡」にあります。当時の大仏は木造であり、その後1252年(建長4年)になって現在ある銅造の大仏が作り始められたそうです。

鎌倉大仏(長谷寺)

鎌倉の人口変遷

中世、鎌倉の人口の正確な記録は残っていませんが、鎌倉時代の人口は、歴史学者の石井進や河野真一郎が64,100人~100,900人と推定しています。

明治以降の鎌倉市の人口の変遷は、以下の通りです。

調査年月日 総人口 男性 女性 備考
1873年(明治6年)1月1日 6,420人 13村に亘るとの記載あり
1898年(明治31年)12月31日 7,388人 3,700人 3,688人 鎌倉町、現住人口
1903年(明治36年)12月31日 8,376人 4,206人 4,170人 同上
1908年(明治41年)12月31日 10,140人 5,203人 4,937人 同上
1913年(大正2年)12月31日 11,154人 5,647人 5,507人 同上
1918年(大正7年)12月31日 14,683人 7,341人 7,342人 同上
1920年(大正9年)10月1日 18,252人 8,623人 9,629人 第1回国勢調査
1925年(大正14年)10月1日 21,013人 10,273人 10,740人 第2回国勢調査
1930年(昭和5年)10月1日 26,646人 12,837人 13,809人 第3回国勢調査
1935年(昭和10年)10月1日 29,412人 13,879人 15,533人 第4回国勢調査
1940年(昭和15年)10月1日 40,151人 18,819人 21,332人

第5回国勢調査

昭和14年腰越町と合併、鎌倉市

1947年(昭和22年)10月1日 55,168人 26,252人 28,916人 第6回国勢調査
1950年(昭和25年)10月1日 85,391人 41,387人 44,004人

第7回国勢調査

昭和23年1月深沢村を編入、

昭和23年6月大船町を編入

1955年(昭和30年)10月1日 91,328人 44,356人 46,972人 第8回国勢調査
1960年(昭和35年)10月1日 98,617人 47,872人 50,745人 第9回国勢調査
1965年(昭和40年)10月1日 118,329人 58,041人 60,288人 第10回国勢調査
1970年(昭和45年)10月1日 139,249人 68,881人 70,368人 第11回国勢調査
1975年(昭和50年)10月1日 165,552人 81,682人 83,870人 第12回国勢調査
1980年(昭和55年)10月1日 172,629人 84,575人 88,054人 第13回国勢調査
1985年(昭和60年)10月1日 175,495人 85,871人 89,624人 第14回国勢調査
1990年(平成2年)10月1日 174,307人 85,057人 89,250人 第15回国勢調査
1995年(平成7年)10月1日 170,329人 82,323人 88,006人 第16回国勢調査
2000年(平成12年)10月1日 167,583人 80,533人 87,050人 第17回国勢調査
2005年(平成17年)10月1日 171,158人 81,443人 89,715人 第18回国勢調査
2010年(平成22年)10月1日 174,314人 82,235人 92,079人 第19回国勢調査
2015年(平成27年)10月1日 173,019人 81,664人 91,355人 第20回国勢調査

昭和35年から昭和50年にかけての人口増加が著しいものの、その後の人口増加は緩やかとなり、昭和60年から平成2年にかけては人口減に転じます。

平成17年に一旦人口は底を打ち、人口増に転じますが平成22年から平成27年にかけては再び人口減となりました。

さて、令和2年の国勢調査結果はどのような結果となっているでしょうか。

注1:郡衙(ぐんが) 古代律令制度の下、中央から派遣された国司の下で郡司(郡を治める地方官)が政務をとった役所。

注2:後三年の役 平安時代後期(1083年~1087年)の東北地方を舞台とした戦役。奥羽を実質支配していた清原氏が滅亡し、奥州藤原氏の登場のきっかけとなった。戦役の名称は、後世の軍記物語において、同じく奥州で先に起こった戦役である前九年の役に対峙させ、源義家の介入(1086年)から凱旋(1088年)までを数えて3年と言ったものとされる。

<参照>

・政府の総合統計窓口 https://www.e-stat.go.jp/

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・速水融監修,「国勢調査以前日本人口統計集成」,原書房

・古事記の原文を検索 http://www.seisaku.bz/search4/searchk.php

・古典作品に見る鎌倉3「古事記・木簡・正倉院文書」,鎌倉好き集まれ! https://www.kamakuratoday.com/suki/kayanomori/3.html

・鎌倉市の歴史,鎌倉市HP https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh211.html

・藤岡謙二郎編,「日本歴史地名辞典」,東京堂出版

・藤岡謙二郎編,「日本歴史地理ハンドブック[増訂版],大明堂

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