02.07
世界遺産キルワの栄光、ソンゴ・ムナラの夢!イスラムの支配が生んだスワヒリ文化とタンザニア
タンザニアはアフリカの東海岸、太平洋に面する国です。
タンザニア
2012年に行われた人口センサスの結果では、タンザニアの人口は44,928,923人、首都ドドマの人口は213,636人、最大都市ダルエスサラームの人口は4,364,541人、この他の主要都市の人口は、ムワンザ:706,453人、ザンジバル:501,459人、アルシャ:416,442人、ムベヤ:385,279人、モロゴロ:305,840人、タンガ:221,127人、キドマ:215,458人、ソンゲア:203,309人などとなっています。
2020年年央のタンザニアの推計人口は、59,734,213人でした。
また、タンザニアはセレンゲティ国立公園やンゴロンゴロ保全地域など、アフリカ特有の野生動物の宝庫でもあり、そしてケニアとの国境近くにはアフリカ最高峰であるキリマンジャロ山が頂を白くしてそびえ立っています。
丘の上から望むンゴロンゴロ・クレーター
キリマンジャロ山(バラフ・キャンプより)
キリマンジャロの名はコーヒーのブランド名としても有名ですよね。
また、ンゴロンゴロ保全地域に位置するオルドヴァイ峡谷は、人類発祥の地の一つともいわれており、ホモ・ハビリスなどの多くの化石人骨が発掘されています。
人類発祥の地の一つとされるオルドヴァイ峡谷
タンザニアの正式名称は、日本語ではタンザニア連合共和国です。
「連合共和国」としているのは、タンザニアが大陸部の広大な面積を擁するタンガニーカ、東海岸沖に浮かぶ島しょからなるザンジバルの二つの地域で構成されているからです。
ザンジバル
タンザニアの名称は、これら二つの地域の名称とアザニア文化からつけられたものです。
なお、アザニア文化は、ローマの哲学者プリニウスの言及にある古代タンザニア周辺地域の文化であり、その後バントゥー系民族入植者が押し寄せたことにより、失われてしまいました。
さて、ザンジバルは、大陸部から独立して広範囲な自治権が認められています。独自に大統領を置くとともに、ザンジバルの大統領はタンザニア連合共和国の第一副大統領を兼任することになっています。
ザンジバルという名前、そう、あのガンダムにも出てきました。
機動巡洋艦の名称としてでしたが。
アニメにも使われるほど印象的な名前だったのでしょう。
それでは、タンザニアの歴史を見ていきましょう。
タンザニアの歴史
人類の起源は、化石人骨の発掘により東アフリカ、もしくは南アフリカに求められるようですが、現在のタンザニアのアフリカ系諸民族は、言語学の研究からバントゥー系民族が紀元前10世紀頃、現在のカメルーン方面から移動してきたものとの説が有力です。
7世紀になって、アラビア半島でイスラム教が成立すると、アラブ人やペルシア人が東アフリカ沿岸部に渡来し、スワヒリ文明を築き上げていきます。
なお、スワヒリ文明(スワヒリ文化とも)とは、インド洋交易によって栄えた東アフリカ島嶼部の都市群を中心とした文化およびその文化圏のことです。スワヒリ語やアラブ人とバントゥー系民族の混血、インド様式も取り込んだ生活様式などにその特徴があります。
タンザニアでは、10世紀から16世紀初頭にかけて海岸部や島しょ部を中心に都市が栄えました。
例えばキルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群としてユネスコの世界遺産にも登録されているキルワ島は、9世紀に商人であるアリ・ビン・アル=ハサンに売り渡されたのち、交易拠点の大都市として成長を遂げたのです。
ここで取引されていたのは、ジンバブエからの黄金や鉄、タンガニーカからの象牙や奴隷、アジアからの繊維、宝石、陶磁器、香辛料などだったと言います。
キルワ島は13世紀までには、東アフリカ沿岸部最大の都市となり、影響力は現在のモザンビークまで及びました。
また、同じく世界遺産であるソンゴ・ムナラ島は、記録がほとんどなく、14世紀から15世紀ころに繁栄していたらしいということがわかっているのみであり、5つのモスクの廃墟などが残っているものの、マングローブ林などに埋もれてしまっています。
1498年になってヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓に始まるポルトガル勢力強化に伴い、1505年にはキルワ王国が滅ぼされてしまいます。
ポルトガルは、この後東アフリカの各地を制圧していきます。
1698年になって再びアラブ勢力が拡大すると、オマーンによってポルトガル勢力は現在のタンザニアから駆逐されます。
19世紀、オマーン帝国のサイイド・サイード王はタンザニアの沿岸部と島嶼部を勢力圏とし、1830年代になってザンジバルに王宮ストーンタウンを建設し、オマーン帝国の本拠地としました。
1856年にはザンジバル・スルタン国が成立し、引き続きクローヴなどの香辛料の交易や奴隷貿易で栄えました。この時代にザンジバルは東アフリカ最大の奴隷市場となるのです。
1890年になるとザンジバルは、大陸沿岸部をドイツに買収され、残った島嶼部もイギリスの保護国となりました。
保護国化当初の内政不干渉の原則は、1896年のイギリスとの戦争で敗北したことにより反故にされ、イギリスによる行政が進みます。
一方、タンザニア大陸部のタンガニーカは、1885年にドイツ東アフリカ会社による植民地化が認可され、ドイツ領東アフリカとなります。
19世紀末、タンガニーカにはンゴニ族やへへ族などの部族国家が複数存在しており、ドイツは数年かかってこれを制圧していきます。
1905年に発生したマジ・マジ反乱は霊媒師が主導する反乱でしたが、これにンゴニ族が呼応したため、最大の反乱となります。
この反乱は、植民地総督であったグスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン伯爵により鎮圧されたものの、その後まもなく腐敗と残虐行為の不祥事が明るみに出、ドイツは植民地政策の見直しを行うことになるのです。
その後の統治は、原住民部族の主張に厚い信頼を置くものでした。そして、第一次世界大戦においては、原住民アスカリ(兵士)がヨーロッパ人将校とともにイギリス軍と戦い、この大戦で唯一敗北しなかった植民地軍となったのです。
ドイツ領東アフリカは第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約により分割され、タンガニーカはイギリス領となります。
第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の潮流の中、1961年12月9日、タンガニーカはイギリスの合意のもと、平和的に独立します。
1963年、ザンジバル王国も主権を獲得し独立するのですが、その直後からアラブ系住民とアフリカ系住民の対立が止まず、ついに1964年1月、革命が勃発し国王やインド系住民が亡命を選ぶことになります。
このとき、5,000人から8,000人のアラブ人が虐殺されたと言います。
その後、ザンジバル人民共和国が成立するのですが、当時のソビエト連邦など、東側諸国によって承認されたものの、東側諸国との結びつきを強めようとする急進派から主導権を握ったアベイド・カルメ大統領は、タンガニーカとの連合を選びます。
かくして、1964年4月にタンガニーカとザンジバルの両国は統一し、「タンザニア連合共和国」が成立することになるのです。
タンザニア成立後も、ザンジバルは強い自治権を確保し、独自の自治政府であるザンジバル革命政府及び議会が存在し、ザンジバルの内政を担っています。このため、タンザニア大陸部(タンガニーカ)からザンジバル島に渡る場合にも入国管理手続きが存在するのです。
<参照>
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・タンザニア統計局 https://www.nbs.go.tz/index.php/en/
・国際連合 2019年の世界人口の見通しhttps://population.un.org/wpp/Download/Standard/Population/