11.21
ジェノヴァの黄昏!黒死病、ベネツィアに敗北、オスマンの台頭、サン・マルコの馬に手綱をつけられなかった地中海の覇者は衰退の一途をたどり、ついにはフランスの属国に!
前々回、ジェノヴァが2つの戦いでライバルだったピサ、ベネツィアを破り、地中海世界の頂点に立ったことは述べました。
今回はその後の苦難の歴史について解説したいと思います。
黒死病とジェノヴァ
いま、世界では新型コロナが猛威を振るい続けています。
日本では治まってきたようにも見えますが、まだまだ油断ができません。
世界史を見ると、新型コロナの比ではないパンデミックを起こした病気があります。
その名を黒死病、ペストといいます。
この伝染病により1346年から1353年にかけて、ヨーロッパ、アジア、北アフリカで7500万人~2億人が死亡し、中でもヨーロッパではその人口の半分が失われたとも言われています。
黒死病は、当時地中海世界の頂点に立ったばかりのジェノヴァに大きな打撃を与えます。
当時、黒海に支配地を得、盛んに奴隷貿易を行っていたジェノヴァですが、クリミア半島の港町カッファから貿易商を介して黒死病が入ってきます。
カッファは現在のフェオドシヤです。
フェオドシヤ(カッファ)
カッファは、チンギス・ハンの長男ジョチの子孫が支配する国、モンゴルのジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)によって攻められ、街は包囲されます。
カッファの守りは堅く、膠着状態が続いた後、軍内でのペストの発生により、モンゴル軍は撤退を余儀なくされます。
モンゴル軍は立ち去り際、ペストで亡くなった遺体を投石機にのせて、城壁の中へ飛ばして退却したと言われています。
こうして、カッファの街にペストが蔓延するわけですが、実際には感染したネズミが包囲戦を移動し、住民に広まった可能性が高いようです。
ペストは瞬く間にカッファの街に広まりました。
疫病から逃れるために、ジェノヴァの貿易商たちは当時の海上交易ルートに沿って、船でまずコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に向かいます。
船は、その後シチリア、サルディニア、そしてジェノヴァ、マルセイユへと寄港し、ヨーロッパ各地にペストが蔓延する原因となりました。
欧州と周辺地域における黒死病の蔓延(1346-1353)、フェオドシヤ(カッファ)から黒死病をのせた船は、海上交易ルートのコンスタンチノープル、シチリア、ジェノヴァ、マルセイユを経由しヨーロッパに広まった、ウィキペディア 黒死病より
黒死病は、ジェノヴァを、そしてヨーロッパを経済的にも人口的にも疲弊させます。
ジェノヴァにとって、これに輪をかけたのがベネツィアとの戦争の敗北でした。
ベネツィア・ジェノヴァ戦争とその後
ベネツィア・ジェノヴァ戦争は、1256年から1381年の125年間にわたるジェノヴァ共和国とベネツィア共和国の地中海の覇権を賭けた一連の戦争です。
この戦争は第一次から第四次の4回に分けられ、前々回に紹介したジェノヴァの圧倒的勝利に終わったクルゾラの海戦は、第二次戦争に含まれます。
第二次戦争の後、黒死病の蔓延による長い空白期間がありますが、病も癒えきってはいなかったであろう1350年には第三次戦争が始まります。この戦争で両陣営の戦力は拮抗していたそうですが、内紛などもありヴェネツィアの勢力が後退することになります。
そして、1377年に始まった最後の戦争が第四次戦争です。
1378年には、ヴェネチアの海将ヴェトル・ピサーニが14隻のガレー船で構成された艦隊で、ジェノヴァの海域に攻め込みます。この14隻というガレー船の数ですが、当時としては規模の小さなものでした。当時、まだまだ黒死病から国力が回復してはいなかったということでしょう。
ほどほどの勝利を収めたピサーニは、帰国を希望しますが許されず、仕方なく一冬を過ごすためクロアチアのプーラ付近に移動しますが、そこでジェノヴァ艦隊の罠に陥り、船団のほとんどを失ったのでした。
クロアチアのプーラ
さて、勢いづいたジェノヴァ軍ですが、1379年8月同盟軍とともにヴェネツィアの玄関口に当たる小さな港キオッジャを攻め占領します。
ベネツィアの玄関口、キオッジャ
キオッジャを失ったヴェネツィアはジェノヴァに交渉を求めましたが、ジェノヴァは「サン・マルコの馬に手綱をつけるまで、平和はない」と宣戦布告し、ヴェネツィアは最後まで抵抗することを決めたのです。
ところで、「サン・マルコの馬に手綱をつけるまで」とはどういった意味でしょうか。
サン・マルコはベネツィアの守護聖人であり、新約聖書「マルコによる福音書」の著者とされる人物です。また、サン・マルコの馬とは、ベネツィアが第4次十字軍の折、コンスタンチノープルから奪い取ってきた4頭の馬のブロンズ像であり、サン・マルコ寺院の正面を飾っていました。
サン・マルコのイコン、ウィキペディア マルコ (福音記者)より
サンマルコの馬、ウィキペディア Horses of Saint Markより
現在はこの4頭の馬は、寺院内に保存されており、現在、寺院の正面を飾っているのは複製になります。
サン・マルコ寺院、正面に4頭の馬の像が見える、ウィキペディア サン・マルコ寺院より
つまり、サン・マルコやサン・マルコの馬とは、ヴェネツィアを象徴するものであり、「サン・マルコの馬に手綱をかける」とは、ヴェネツィアを支配下に置くことにほかならなかったと考えられます。
この言葉によって、かえってヴェネツィア人の闘争本能に火をつけてしまったのかもしれません。
ヴェネツィアは、先の敗北で投獄されていたピサーニを釈放します。ピサーニとヴェネツィア総督(ドージェ)アンドレア・コンタリーニは夜陰に紛れ、ジェノヴァが占領しているキオッジャを孤立させることに成功します。
ヴェネツィアにとって幸いだったのは、時を同じくして地中海でヴェネツィアの主力艦隊を率いて活動していた提督カルロ・ゼーノ(Carlo Zeno)が帰ってきたのでした。
ジェノヴァ軍は激しい攻撃にさらされます。
ピサーニは、石を満載にした船を至る所に沈め、ジェノヴァの船の航行を困難にし、さらにアドリア海にガレー船団を停泊させ、外からのジェノヴァ軍への救援を遮断しつづけます。
斯くして、1380年6月24日、キオッジャのジェノヴァ軍はベネツィア軍に降伏し、アドリア海からジェノヴァの船が消えてゆくことになったのです。
この敗北により、ジェノヴァの海軍の優位性は奪われ、ジェノヴァの衰退が始まったのです。
オスマン帝国の台頭も、これに拍車をかけました。エーゲ海や黒海の交易活動も縮小せざるを得なくなりました。
1396年、総督(ドージェ)アントニオット・アドルノは、ジェノヴァ共和国を守るため、フランス国王シャルル6世をジェノヴァの守護者(difensor del comune)に任命します。
ジェノヴァが本格的に他国の勢力に支配されたのは、これが初めてでした。
さて、まだまだジェノヴァの話は尽きないのですが、今回はここまでとしたいと思います。
ところで、黒死病はその後もたびたびヨーロッパ世界を脅かせました。
しかし、当初のような大きな災厄は二度とは発生しなかったのです。
そして、地中海世界は黒死病(ペスト)を乗り越え、やがてルネサンス花開く時代へと突き進んで続いていくことになるのです。
黒死病という災厄から立ち直っていった地中海世界を見つめ直すことは、今後の世界を占う上で大切なことかもしれません。
今でもペストに有効なワクチンは存在しません。
そんな病でさえも、人類は克服してきたのですから。
<参照>
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・パンデミックの歴史が見せる未来の姿【vol.2】,THINKABOUT https://corp.netprotections.com/thinkabout/4175/