10.10
竹鶴政孝の軌跡をたどるジャパニーズ・ウイスキー誕生の旅(その1)~広島県竹原町からスコットランド、エルギンへ~
余市町(その1)で、余市町の人口の変化を見てきました。余市町(その2)として、竹鶴政孝と余市町のことを書こうとしましたが、話が長くなりそうで、余市町までたどり着けそうにありません。そこでジャパニーズ・ウイスキー誕生の旅にタイトルを改め、何回かに分けて書くことにしました。
しばらく余市町までたどり着けないかもしれませんが、竹鶴政孝の足取りを追って日本や世界の街を一緒に訪ねてみませんか。
竹鶴政孝、竹原町に生まれる
竹鶴政孝はニッカウヰスキーの創業者、初代社長にして、ウイスキーの父とも呼ばれる人物です。
ニッカウヰスキー北海道工場余市蒸留所の銅像(Morigen, Public domain, via Wikimedia Commons)
明治27年、広島県竹原町(現在の竹原市)の造り酒屋の三男に産まれ、その跡取りとして嘱望されながら、その志はウイスキーへと次第に傾いていくのです。
現在の竹原市と竹鶴酒造(株)
現在も竹原市本町に昔の店構えを残す竹鶴酒造(株)、江戸時代の町並みが残る景観保存地区内にあります
さて、竹原の地は京都の下鴨神社の荘園地として開墾されたのがそのはじまりとされています。室町時代の後期には、毛利元就の三男、小早川隆景が幼少期を過ごしたことでも知られます。
江戸時代後期になって竹原は塩田と酒造によって発展し、特に塩は広島県で生産されたものが全国の80%のシェアを占めたと言います。
竹鶴家はもともと竹原の三大塩田地主のひとつで、酒造業も手がけていましたが、政孝の祖母の代に分家し製塩業を営んでいました。
父の代になって、本家に入り酒造業を継ぐこととなり、政孝はその三男として竹鶴の本家で生を受けたのです。
摂津酒造を経て単身スコットランドへ
竹鶴政孝は、大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、大阪大学工学部)醸造科に入学します。
1916年、当時の洋酒業界の雄、摂津酒造に卒業を待たずに入社、1918年には社長の命を受け単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学に学びます。その間、現地のウイスキー蒸留所に飛び込みで訪問し、1週間の研修を体験しました。
このとき通ったのがハイランド地方の中心都市インヴァネスから東におよそ60kmに位置する街、エルギンのロングモーン・グレンリベット蒸留所、現在のロングモーン蒸留所です。
エルギンの街とロングモーン蒸留所
現在のロングモーン・グレンリベット蒸留所、石造りの施設が当時の面影を残します
エルギンは1130年頃、王室の自治都市としてスコットランド王デイヴィッド1世によって建設されました。現在の人口は2万4020人(2020年6月30日推計)の街となっています。
そして、ロングモーン蒸留所は、エルギンの街から5kmほど南に位置する1894年創業の蒸留所です。創設者の名はジョン・ダフ、チャレンジ精神に富んだ人物だったようで、南アフリカやアメリカで挫折を味わい、やっとウイスキー蒸留に理想的な場所を見つけロングモーン蒸留所を設立したそうです。
当時開通したばかりのスコットランド・グレート・ノース鉄道(現在は廃線)にも近く、豊かな水源、良質な大麦、ピートの調達も容易で大きな水車が蒸留所の動力源となる、理想的な場所だったのです。
竹鶴政孝がここに通ったのは、1919年のことでした。
次回、リタとの出逢い、そして結婚、キャンベルタウンの蒸留所での最後の実習、やがて舞台は京都近郊の山崎へと移り変わって行きます。
<参考>
・竹鶴政孝著,ウイスキーと私,NHK出版,2014年
・竹鶴政孝著,ひげと勲章,ダイヤモンド社,1966年
・ニッカウヰスキーストーリー,https://www.nikka.com/story/
・1週間だけのウイスキー旅行:北スペイサイド編(3)ロングモーン蒸溜所,WHISKY Magazine,http://whiskymag.jp/northenspeyside03/
・National Records of Scotland,https://www.nrscotland.gov.uk/
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』