08.14
琉球王国の港町として発展、今も人が増え続ける街、那覇!沖縄のシンボル首里城の復活も近い!
沖縄本島南部に位置し、沖縄県の県庁所在地であり、政治・経済・文化の中心でもある那覇市は、那覇国際空港や那覇港を擁し、沖縄県の玄関口でもあります。
那覇市の人口は近年増え続けてきましたが、2015年の国勢調査結果では31万9435人、2020年国勢調査の速報集計値では31万7832人と、この5年間でわずかに減少しました。ただし、豊見城市や南風原町などの周辺部を含めた都市圏としての那覇の人口は増加を続けています。
那覇市
このような那覇市ですが、その歴史は王都首里とともにあり、沖縄をつねに牽引にしてきたとも言えるでしょう。
琉球王国の港町として発展し、やがて沖縄の中心都市となった那覇の、その歴史をたどってみましょう。
那覇市の歴史~琉球王国の港町として発展
那覇はもともと市の南部を流れる国場川河口部に開けた港町であり、その北側を国場川と平行に流れる安里川とともに、琉球王国の首都であった首里の貿易港、および東アジア、東南アジアにおける中継貿易の拠点として栄えてきました。
那覇港の発展に伴い、町は成長し首里に次ぐ琉球王国の中心都市となっていったのです。
さて、那覇という地名については伝承があります。「琉球国由来記」注1「遺老説伝」注2によると、呉姓我那覇注3の家に怪石があり、その形は野菰(俗に「奈波(なば)」という。いわゆるきのこのこと)に似ていたそうです。村ができて、この地を奈波というようになり、やがて那覇に改字されたといいます。一方でナバは漁場とする説もあります。
15~16世紀頃には、ナバと呼ばれていたようです。
沖縄最古の歌謡集で、12世紀ころから17世紀初頭にかけてうたわれていたものを集めた「おもろさうし」には、首里の王が「うきしま」を造営されて、唐や南蛮の船で那覇がにぎわっていたことが謡われています。
四方を海や川で囲まれた入り江の小島を「うきしま」と称し、もともと那覇はそのうきしまの一漁村に過ぎなかったと考えられていますが、琉球王国の港となり、大きく発展を遂げたのです。
1392年に明の光武帝により下賜されたとされる中国福建省の職能集団が移民した久米村や1451年尚金福王が明の冊封(宗主国と朝貢国の関係を伴う外交)使を迎えるため、当時宰相であった中国人の懐機に命じて建設した長虹堤、倭寇などの襲撃からの防御のため那覇港の南北に築いた砲台三重城(みえぐすく)などの那覇の名所は、1756年に冊封副使として琉球を訪れた周煌(しゅうこう)の琉球国志略にまとめられ、その後葛飾北斎の目にとまり浮世絵「琉球八景」にも描かれました。
長虹堤の描かれた葛飾北斎の琉球八景 長虹秋霽、ウィキペディア 琉球八景より
長虹堤の建設後、島だった那覇は、橋の影響で徐々に土砂が堆積し、琉球王国末期には沖縄本島とつながってしまいました。
ところで、琉球王国の首都は首里でした。今でこそ首里は那覇に編入されていますが、それ以前から那覇は沖縄県の県庁所在地となっています。
いつ、なぜ首里ではなく那覇が県庁所在地となったのでしょうか。
ときは1879年、廃藩置県により沖縄県が設置されます。このとき、首里に県庁が置かれる予定だったのですが、当時の大日本帝国陸軍が首里に駐屯していたため、敷地がなく、県庁は那覇に置かれることとなったようです。
このときから、行政の中心は首里から那覇へと移っていったのです。
破壊された街に奇跡の1マイル!国際通りの誕生
那覇は、近代以降も沖縄県の物資の集積地、商業都市として繁栄しますが、第2次世界大戦により街は完全に破壊されてしまいます。
戦後、那覇市の中心部はアメリカ軍の管理下に置かれ、住民の多くは県北部の収容所に移されていました。
生活物資が不足する中、その解消のために1945年11月以降、職人らがつぎつぎと帰郷を許されます。
これに混じって許可のない住民も次々と那覇に住み着き、現在の国際通り一体に集落が生まれていきました。
那覇の住民であり、実業家、政治家でもある高良一(たからはじめ)は、こうした中でアメリカ軍と直接交渉し、1948年になって映画館「アーニーパイル国際劇場」を開館させます。これ以降、周辺地域は商業地として急速に発展、戦後の焼け野原からめざましい発展を遂げたことから「奇跡の1マイル」とも呼ばれ、「アーニーパイル国際劇場のある通り」がその名の元となった「国際通り」が誕生したのです。
1950年代の国際通り、ウィキペディア 国際通りより
現在の国際通り
首里城の歴史と焼失、そして再建プロジェクト
首里城跡は、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。
2019年10月に首里城が焼失しましたが、これは1992年の復元によるものです。
世界遺産には、この復元された首里城は含まれていませんでした。
とはいえ、首里城は、これまでも何度も焼失という憂き目に遭い、そして何度も再建されてきた城(グスク)です。
首里城の創建年代は不明ですが、13世紀末から14世紀にかけて、沖縄の他の多くの城と同様に成立したものと考えられています。
1429年、尚巴志がそれまで沖縄本島にあった三つの国、山南、中山、山北を統一し琉球王国を興(おこ)すと、首里城が王家の居城となります。
最初の焼失は1453年であり、王位争いに端を発します。このころの首里城の屋根は板葺きでした。
二度目の焼失は1660年のことであり、このときは再建に11年の年月がかかっています。屋根は瓦葺きになりましたが、発掘調査の結果、瓦の色は灰色だったそうです。
1709年の三度目の焼失では、財政の逼迫から薩摩藩から2万本近い原木の提供を受け、1715年に再建されました。このとき、初め赤瓦となったそうです。
そして第二次世界大戦中の沖縄戦において、日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、アメリカ軍艦からの3日間にわたる砲撃を受けた結果、1945年5月27日に焼失したとされています。
戦災で失われる前の正殿(1934年6月),ウィキペディア 首里城より
1958年になって、守礼門の再建に始まり、周辺建築物が復元されていきました。そして1979年首里城跡に建っていた琉球大学の移転の後、首里城の本格的復元が始まり、1992年(平成4年)には正殿が復元されます。1715年建築の首里城をモデルとしたものでした。
首里城は、今では沖縄のシンボルの一つとなっています。
戦後再建された首里城城内,ウィキペディア 首里城より
2020年3月、日本政府は、首里城正殿を2026年中に完成させる方針を固めました。
そしていま、世界中の多くのひとびとの支援と期待を受けながら、再建プロジェクトが進んでいます。
またふたたび、沖縄の青い空に映えるあの真っ赤な首里城に会える日も近いのです。
注1 琉球王国王府が編纂させた地誌。1713年に琉球国王へ上覧された。
注2 琉球各地に古くから伝わる民話、伝説などを集めた書物。18世紀初期の編纂とみられる。
注3 呉氏我那覇家、琉球氏族。
<参照>
・沖縄県の地名,日本歴史地名体系48,平凡社
・世界大百科事典 第2版,平凡社,コトバンクより
・歴史に触れる,那覇市公式ホームページ https://www.city.naha.okinawa.jp/kankou/kankou/rekisi.html
・首里城を巡る~焼失後の首里城の今~,OnTrip JAL https://ontrip.jal.co.jp/
・首里城の赤瓦,首里城公園公式ホームページ https://oki-park.jp/shurijo/
・首里城正殿 26年完成 政府方針、22年から再建,琉球新報 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1096820.html
・政府の総合統計窓口 https://www.e-stat.go.jp/
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』